2018年11月の仕事

・【批評】「先行研究の博捜と原文に忠実な翻訳が示した解像度の高い一冊――性を異にする複数名義で書かれた小説群をセットで紹介――『夢のウラド フィオナ・マクラウドウィリアム・シャープ幻想短編集』書評」(「図書新聞」2018年11月10日号)
・【イベント】【対談】岡和田晃×倉数茂「新自由主義社会下における〈文学〉の役割とは」(2018年11月10日、ジュンク堂書店池袋本店)
・【対談】荒井裕樹×岡和田晃「差別と闘う新しい言葉を」(「図書新聞」2018年11月17日号)
・【批評】「〈世界内戦〉下の文芸時評 第四五回 「政治」がもたらすリミッターの解除を、押し返すための「いかれころ」(「図書新聞」2018年11月24日号)
・【紹介】『月刊アナログゲーム情報書籍「Role & Roll」Vol.169「『エクリプス・フェイズ』入門シナリオ&運用ガイド 最後の夢と悪夢の酒」』(「SF Prologue Wave」2018年11月20日号)
・【ゲームデザイン岡和田晃朱鷺田祐介待兼音二郎「『エクリプス・フェイズ』入門シナリオ&運用ガイド「悪夢の衛星タナカの恐怖」」(「Role&Roll」Vol.170、新紀元社
・【批評】「『幻影の航海』から「多頭のヒドラ」へ──『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』の背景」(「ナイトランド・クォータリーvol.15」、アトリエサード

2018年10月の仕事

・【レポート】「「山野浩一さんを偲ぶ会」レポート」(「図書新聞」2018年10月13日号)
・【イベント】『トンネルズ&トロールズ完全版』の「アンクル・アグリーの地下迷宮」のダンジョンマスター(FT書房、2018年10月5日)
・【批評】「〈世界内戦〉下の文芸時評 第四四回 既存の「文学」が正面からの対峙を避けてきた領域の顕在化8「図書新聞」2018年10月20日号)

・【イベント】『エクリプス・フェイズ』の「悪夢の衛星タナカの恐怖」のゲームマスター六義園、10月13日)
・【監修】【ゲームデザイン朱鷺田祐介岡和田晃待兼音二郎「『エクリプス・フェイズ』入門シナリオ&運用ガイド 最後の夢の悪夢の酒」(「Role&Roll」Vol.169、新紀元社
・【監修】【歴史コラム】待兼音二郎見田航介「戦鎚傭兵団の中世“非”幻想事典 第四七回 中世の焦土作戦ビザンツ帝国のゲリラ持久戦略」(「Role&Roll」Vol.169、新紀元社
・【序文】「アホフェミ」について(笙野頼子さんの見解)(「Flying to Wake Island 岡和田晃公式サイト(新)」、2018年10月20日
・【紹介】「月刊アナログゲーム専門書籍「Role&Roll」Vol.167『エクリプス・フェイズ』インターミッション&運用ガイド 即身仏とカリスマ美女モデル」」(「SF Prologue Wave」2018年9月20日号、http://prologuewave.com/archives/6855
・【イベント】『反ヘイト・反新自由主義の批評精神』についての討議(神山睦美主催、書評研究会、於:大阪経済法科大学東京麻布台セミナーハウス、2018年10月27日)
・【批評】「デヴィッド・アーモンド『ポケットのなかの天使』レビュー」(「TH(トーキング・ヘッズ叢書)No.76」、アトリエサード
・【批評】「シミュレーションによって算出された「この世ならぬ場所」のままならなさ――佐藤大輔『遙かなる星1~3』」(「TH(トーキング・ヘッズ叢書)No.76」、アトリエサード
・【批評】「山野浩一とその時代(5)映画『デルタ』の思想と、「NW-SF」創刊前夜」(「TH(トーキング・ヘッズ叢書)No.76」、アトリエサード
・【共著】【インタビュー】『こころ揺らす 自らのアイヌと出会い、生きていく』((聞き手:村田亮北海道新聞社)
・【解説・監修・設定協力】フーゴ・ハル『ブラマタリの供物 クトゥルフ神話ブックゲーム』(新紀元社

 また、「TH」No.76の阿澄森羅・仁木稔・高槻真樹・待兼音二郎・松本寛大の各氏の原稿を監修させていただきました。

小林よしのり氏らのアイヌ否定について【立憲民主党 広報部長・坂上隆司さま宛】

立憲民主党が、ネットを徘徊する怪物「差別的デマ」は、いま誰を餌食にしているのか(古谷 経衡) | 現代ビジネス | 講談社(2/4)に関し、小林よしのり氏らの抗議を受けて、実質的にその内容を否定する旨を、Twitterで告知していました。

こうした現状を憂慮し、岡和田晃立憲民主党の公式サイトから、以下の文章をメールで送りました。

以下、全文転載させていただきます(規定の800字に収めてあります)。

現時点における立憲民主党の対応は、事実関係の精査を怠った問題あるものとなってしまっています(小林よしのり氏が「アイヌ特権(利権)」デマの煽動をしていないという、誤った認識を流布するものになっています)。

小林氏サイドの抗議に怯むことなく、毅然とした対応を期待します。(岡和田晃

小林よしのり氏らのアイヌ否定について【立憲民主党 広報部長・坂上隆司さま宛】

 

 文芸評論家・東海大学講師の岡和田晃と申します。『アイヌ民族定論に抗する』(河出書房新社、全国学図書館協議会選定図書)の共編者です。
立憲民主党の公式ツイッターが、「「現代ビジネス」に掲載された古谷経衡氏の記事「ネットを徘徊する怪物『差別的デマ』は、いま誰を餌食にしているのか」を党公式アカウントがリツイートた」件について「不適切」と意思表明していました。
しかしながら、小林よしのり氏らは2008年からアイヌの民族性を否定し、アイヌに「特権(利権)」があると主張してきました。2014年に、札幌市議(当時)が「アイヌ民族なんて、いまはもういない」、「利権を行使しまくっている」とSNSに書き込んで社会問題になった際、それを支持しています(「慰安婦問題と同じ道をたどる『アイヌ民族』問題」小林よしのりライジング Vol.99」(2014年)。
https://ch.nicovideo.jp/yoshirin/blomaga/ar613868?fbclid=IwAR1nqzPPruf4DgqEVEZZpCVU6CEMErCDqag5gAyM2V7jsGB7dVrh4E8hsc8
それゆえ2015年に刊行された『アイヌ民族否定論に抗する』では、さまざまな領域の専門家が多角的に、小林よしのりら氏のアイヌ否定は学術的に何ら根拠がなく、また「アイヌ利権」が事実無根ということを、論証しています。にもかかわらず、小林氏らは持論を撤回することなく、『対決対談! 「アイヌ論争」とヘイトスピーチ』(創出版、2015年)等でも従来の主張を繰り返しました。
それゆえ、古谷氏の記事に見られる、「2014年から2015年頃」に「「アイヌ特権」という新たなデマ」を流布する「運動の最前衛に立ったのは、漫画家の小林よしのりであった」という認識は、事実レベルで何ら間違ってはおりません。

 

『反ヘイト・反新自由主義の批評精神』エラッタ(更新:2018年1月3日)

 『反ヘイト・反新自由主義の批評精神』に関して、判明している誤植を以下に訂正いたします。ご指摘いただいた方々に感謝します。

 

・p.199、6行目

×『ぐずぐり』

◯『ぐずべり』

 

・p.248、1行目

×金泰正

◯金泰生

 

・p.251、2行目

×一部にとなる。

◯一部となる。

 

・p.269、1行目(引用内)

×どの肉でも

◯どの国でも

 

・p.375、「付記」の2行目

×第四八回衆議院議員

◯第四八回衆議院議員選で

 

・p.420、3行目

×一九九八年当時

◯一九八八年当時

 

・p.424、後ろから1行目

×「ズレをはさんだ繰り返し」

◯「ズレをふくんだ繰り返し」

 また、「青木淳悟――ネオリベ時代の「新しい小説(ㇴ―ヴォー・ロマン)」の初出の際に参加していた研究会(限界研)を、私はすでに退会しています。

 加えて、「沖縄の英文学者・米須興文の「二つの異なった視点」」に関しては、英文学者の齋藤一氏より、教示と資料提供を受けております。記して感謝申し上げます。 

第39回日本SF大賞推薦文

 岡和田晃は、日本SF作家クラブ会員として、今年は以下3点のエントリーを行いました。

 

・倉数茂『名もなき王国』
 SF文壇において幻想文学、さらに言えば“政治の季節”を横目で睨んだ作品は、どうも下位に見られる傾向があるようだ。世界文学を継承した作風とあれば、なおさらである。本来ならば、同じ作者の『始まりの母の国』(2012)の時点で、本賞へノミネートされていてしかるべきだろう(非常に優れた本格ジェンダーSFである)。が、本作を改めて推したいのは、初期の山尾悠子を思わせる硬質な文体において綴られる個々の短編小説の幻想性が、大きな枠物語としてジーン・ウルフ風の大胆な世界認識の読み替えをもたらす点だ。それは同時に、1980年代以降の新自由主義的文化状況を前提とする、アンダーグラウンド精神の復権を呼びかけてもいる。「SF Prologue Wave」や「TH」といったオルタナティヴ・メディアを初出とする短編も入っているのは、偶然ではないのだ。より詳しくは、「高知新聞」2018年9月9日朝刊で書評を参照。

 

渡邊利道「エヌ氏」
 第3回創元SF短編賞飛浩隆賞を受けた本作は、本来であれば『原色の想像力3』に収録されるはずであったというが、紆余曲折を経て5年の後に、「ミステリーズ!」Vol.90に掲載され、ようやく陽の目を見た。奇しくも評者は、応募時の原稿を読む機会があり、その際は、あまり評価できないとコメントせざるをえなかったのであるが、いざ改稿された本作を目にして驚かされた。5年という月日が、本作を成熟へと導いていたのである。トマス・ディッシュ「アジアの岸辺」への返歌といったコアの部分はそのままに、むしろ批評家として知られているだろう著者の見識が、枝葉として貪欲に盛り込まれ本筋と巧妙に噛み合うバロック的なスタイルをもたらしていた。それでいて、現代日本SFのアキレス腱であるジェンダーエスニシティに対する批評性も盛り込まれている。批評的な知への無頓着を感じさせる新人作が少なくないなか、本作の意欲を大いに買いたい。

 

吉川浩満『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』
 わずかな例外を除き、日本SF大賞は理論的なSF批評・評論の仕事に対し、正面から向き合うことを避けていた。結果、知的な読者層を少なからず取り逃してしまっている。本書は、社会ダーウィニズムの「浸透と拡散」の問題点を、説得力のある筆致で刳出してみせた『理不尽な進化』の著者の第2評論集であり、優れたコレクト・クリティークとなっている。作品をベースにして(例えば)認知科学的なフレームを取り出すという手法が、これまでのSF評論のスタンダードだったとすれば、本作の方向性は真逆である。(例えば)ポストヒューマニズムの理論的な枠組みを示し、そのような大枠から、SF作品の意義を語ってみせるのだ。巷には、SFを論じるとなると、人口に膾炙した映像作品をうっすらとなぞって満足するような批評も少なくないのだが、本書では『スティーヴ・フィーヴァー』のような達成もきちんと踏まえられており、安心して読むことができる。

 

樺山三英「団地妻B」
 第37回日本SF大賞最終候補になった『ドン・キホーテの消息』に続く、樺山三英の最新SFは――某大手文芸誌に発行寸前で差し止めを受けた「セヴンティ」(「メタポゾン」10号に掲載)から5年を隔て――ようやく「すばる」2018年4月号に掲載された本作「団地妻B」である。これはフローベールボヴァリー夫人」の本歌取りでありながら、フェデリコ・フェリー二監督『8 1/2』やJ・G・バラード『クラッシュ』の語り直しを内包しており、それどころか、作中にも“カメオ出演”している蓮實重彦の批評を大胆に援用することで、小説でありながら「批評としてのSF」を体現する作品になりえている。樺山三英日本SF作家クラブから退会してしまったが、この作品をスペキュレイティブ・フィクションとして位置づけることは重要だろう。「図書新聞」2018年4月21日号、5月19日号の「〈世界内戦〉下の文芸時評」も参照されたい。


・ダン・ゲルバー、グレッグ・コスティキャン、エリック・ゴールドバーグ『パラノイア【ハイプログラマーズ】』
 日本SF大賞はこれまで、一回もゲーム作品へ授賞したことがない(候補作になったことはあるらしい)。これは端的に本賞のアキレス腱になっているだろう。もとより、SFとゲーム(とりわけ会話型のロールプレイングゲーム)は、相互に絡み合うようにして発展を遂げてきた歴史が存在するからだ。詳しくは、「SFマガジン」2018年6月号の「『恐怖の墓所』のその先へ」を参照されたいが、ことオーウェル風のディストピアをシミュレーションする強度において、『パラノイア』シリーズを無視することはかなわない。今回邦訳がなった【ハイプログラマーズ】は――現代日本の状況を連想させずにはおかない――腐敗した官僚の立場をシミュレーションするというユニークな発想の作品で、『ディプロマシー』や『フンタ』といった名作の系譜にありながら、小説では表現できない形のSFを体現しえており、十二分にSF大賞に値する斬新さがあるだろう。

※字数制限で盛り込めませんでしたが、「図書新聞」2018年上半期読書アンケートの岡和田回答も参照してください。

 

・マーク・ガスコイン編『タイタン――アドバンスト・ファイティング・ファンタジーの世界』
 かつてSF出版社が専門レーベルを擁していたことからも自明なとおり、ゲームブックもまた、SFと密接に関わる分野であった。今なおそうだ。RPGを一人でプレイできるソロ・アドベンチャー形式の嚆矢となったのは『トンネルズ&トロールズ』(T&T)シリーズであるが、パズラー的に精緻化させたのが『火吹山の魔法使い』に始まる「ファイティング・ファンタジー」(FF)シリーズだ。FFで育った世代が『アドバンスト・ファイティング・ファンタジー第2版』をデザインし、それが2018年に日本でも翻訳・出版されるという動きは、オールドスクール・ファンタジー復権と解釈できる。日本オリジナルのT&Tソロ・アドベンチャー『トラブルinトロールワールド』の刊行、籾山庸爾が代表をつとめるハーミットインの奮闘という動きが見られるが、それらを象徴する作品として、素晴らしく生き生きした架空世界を提示した『タイタン』を顕彰したい。

 

※その他、山尾悠子『飛ぶ孔雀』を初出から読んでいます。2018年前期の小説で、もっとも批評性がありテクニカル。文芸時評でも絶賛しました。泉鏡花賞をとっているが、本来なら賞を総なめのレベルです。ただ、著者インタビューでは意図的に「SF」のレッテルから離れようとしていたのが窺え、それを尊重しエントリーは避けました。

大杉重男氏への応答

 

 「図書新聞」2018年10月20日号に掲載した「〈世界内戦〉下の文芸時評 第四四回」に対し、文芸評論家の大杉重男氏から、氏のウェブログ「批評時間」において反論があった(「文学を愛することについて」、2018年11月15日付け)。「図書新聞」の紙面では紙幅が限られているので、私のサイトをもって応答を試みる。

 

・応答の前提

  まず、はっきりさせておきたいこととしては、大杉氏は私の評について「批判的な」評と書いてあるが、実は大杉氏が引用した箇所の前段には、「朴裕河の『帝国の慰安婦』をめぐる論争の整理には説得力を感じさせる記述も多い」と、大杉論を評価するコメントがついている。そのうえで付された時評なので、「批判」とみなされた部分は、議論の解像度を上げるために限られた紙面でなしえた、読み手からの(ささやかな)提案にほかならない。

 

アイザック・アシモフについて

  私が時評で述べた「アシモフが基盤になることからもわかるとおり」というのには、二つの含意がある。第一に、そもそもアシモフの「ロボット工学三原則」は、あまりにも有名がゆえ、それらを応用した議論や作例は事欠かない。にもかかわらず、大杉氏がそれらの歴史的蓄積を押さえているとは、(応答を読んでも、なお)まるで思えないことを問題視している(*)。そもそもの話、アシモフを「あっけらかんとした戦争の反省なき」作家と捉えることは、本当に正しいのだろうか? クリシェにすぎないと思う。アシモフユダヤ系であり、それによって生じた陰影は、よくテクストを読むと、かなり如実な形で反映されている(むしろ、アシモフを本当に「読む」のであれば、ナボコフあたりと並べるのが的確かもしれない)。

 噛み砕いて言うと、実のところ私がアナクロだと書いたのは、アシモフそのものに対してでは、必ずしもない。真に問題なのは、アシモフを「文学」としてではなく、「エンターテイメント」などと短絡的に言い張り、そうした解釈枠について反省的に問うことがない批評性の不足にこそある。

 「アシモフが「アナクロ」だということは日本国憲法も「アナクロ」」と大杉氏はさらりと述べているが、私は日本国憲法を「アナクロ」などとはまったく書いていない(このさりげない飛躍には抗議しておく)。強いて言えば、日本国憲法を解釈するために大杉氏が用いたツールが錆びついており、磨き直していないのではないか、と指摘しているのである。

 というのも、これは第二の問題につながるのだが、「ロボット三原則」で「日本国憲法」を解釈するという試みを、大杉氏は「早稲田文学」で連載していた(「「ロボット工学三原則」と日本国憲法――「日本人」の条件(1)」など)、連載は二〇〇八年に開始されたもので、このときは新鮮な気持ちで読めたものの、少なからず状況が変わった現在においては、題材こそ新し目のネタを使いながら、理論的な部分に関してはほとんど変化がないように見えた。そのように読めてしまう理由の一つは、「「日本人」の条件」がまとめて本になっていないからかもしれない。

 「子午線」第2号のインタビューで大杉氏は、連載をなかなか本にできない趣旨の苦労を述べていたものと記憶するが……いまはオンデマンド出版でも電子書籍でも、それこそ手段には事欠かないし、文学フリマや日本近代文学会(私も会員である)の物販スペースなど、いくらでも発表の場はあるだろう。もし、『小説家の起源』および『アンチ漱石』に続く、大杉氏の第三評論集が出るのであれば、喜んで私はお金を支払いたいと思う。

 

・J・G・バラードについて

  私が時評でJ・G・バラードの「終着の浜辺」について触れたのは、それは「歴史の終わり」そのものがテーマだからである。そこに描かれているのは「廃墟趣味と抒情性」などではまったくないし(このような読み方は、いくらなんでも浅薄にすぎる。せめて、筒井康隆の放言を解析するくらいの熱量は示してほしいものだ)、「冷戦時代の歴史性を色濃く反映」していることは否定できないものの、より強くテクストが描こうとしているのは、1945年8月5日・6日に広島へ落とされた「核」である(参考:バラードの訳者・増田まもる氏の批評 http://blog.tokon10.net/?eid=1052625)。

 ちなみに、バラードは上海時代に収容所体験を経ており、それは「自伝」的な虚構である『人間の奇跡』に詳しい。いまはバラードの短篇は全集も出ているので、どうせ読むならば「SFの専門家」とは「議論を避ける」などとは言わず、しっかり読んでほしいものだ。

 

筒井康隆の問題発言について

  「慰安婦」をめぐる筒井康隆の問題発言については、私は「図書新聞」2017年5月20日の、第二七回の時評で記している。

 大杉氏が、あえて「トリヴィアル」な部分にこだわりたいというのは理解し、そのこと自体は否定するものではまったくないが、私が筒井発言を詳細な言及に値しないと考えるのは、『モナドの領域』に続く近作にからめての文脈である。

 

・「ヘイト」について

  大杉氏は、「「ヘイト」は何時でも必ず「ヘイトに対するヘイト」」と述べているが、本質主義的な体裁をとった「どっちもどっち論」の変種としか思えなかった。いまの状況において有効性を持つとは思えないし、何より説得されない。

 そもそも、“文学嫌い”というのは、「ヘイト」でも何でもない。ヘイトスピーチの「ヘイト」は、「人種、皮膚の色、世系又は民族的もしくは種族的出身に基づく」(人種差別撤廃条約1条1項)差別を、例えば指すものである。その意味で、大杉氏の論考も、引き合いに出された綿野恵太氏の論考も、「ヘイト」ではまったくない。

 私が大杉氏の論を“文学嫌い”と書いたのは、『アンチ漱石』で大杉氏が打ち出していたようなカノン批判が、より縮小された形で――今回のアシモフやバラードへの言及に顕著だが――論じる対象へのリスペクトを感じさせないものとして、再生産されていた点を指摘している。なるほど、筒井発言については「文学的」に読んでいるかもしれないが、筒井の近作についても、同様の深読みがほしいものだ。そのような姿勢では、「文学に愛されたい」と言っても、ありていに言って、まあ難しいのではないか(受容の準備ができておらず、認知的不協和に陥るだけである)。

 なお、なぜか渡部直己氏が引き合いに出されているが、理解不能である。氏のセクハラを私はまったく支持していない。理由については、「図書新聞」2018年7月14日号の「〈世界内戦〉下の文芸時評 第四一回」で記した。それに、私は大杉氏が言うような意味で「文学」を「愛した」ことはついぞない。

 

・「東浩紀以降の批評家」について

  最後に付言すると、私のことを「東浩紀以降の批評家」などと言われても、東氏に何らポジティヴな影響を受けていない私は、そのようなラベリングを公にされることに対し不快感を表明せざるをえない。

 それを言うなら、私は2002年度、早稲田大学で大杉氏が開講していた『シュレーバー回想録』の講読を受講していたことがある。とかく休講の多い印象が残っているが、刺激を受けた部分も多く、大杉氏の批評を能う限り読むきっかけとなった。大杉氏が「群像」に書いた「神経言語論」(1999年)とリンクする部分が多い講義内容だったと記憶する。

 少なくとも、私は『シュレーバー回想録』を大杉氏によって意識するようになった。この経緯を鑑みると、あえて私のことを先行世代の批評家「以降」と書かなければならないのであれば……私に関しては「東浩紀以降」というよりも、「大杉重男以降」と評するほうが、「東浩紀以降」などとされるよりは、まだしも正確性の高い記述だといえる(そうせよ、と要請しているのではまったくない。念のため)。

 

(*)一点挙げるのであれば、宮内悠介『スペース金融道』では、「ロボット工学三原則」を(とりわけサイバーパンク以降の)ポストヒューマニズムの観点から読み替える試みがなされている。「純文学」の領域でも活躍する宮内は、『スペース金融道』を自覚的な「エンターテイメント」として書いている旨をさまざまなところで述べているが、それを真に受けて、もし本書を「エンターテイメント」としか読めないのだとしたら、問題だ。バラードがピンとこなかったらしい大杉氏には、本書を読んでいただきたいと思う。

 

 2018年11月22日 岡和田晃

※11月23日および12月6日、趣旨はそのままに、一部の誤記を修正した。

2018年11月10日にジュンク堂書店池袋本店で倉数茂さんとのトークイベントを開催します

 2018年11月10日にジュンク堂書店池袋本店で倉数茂さんとのトークイベント「新自由主義社会における〈文学〉の役割とは」を開催します。

 ぜひお越しください。

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●出演者

・岡和田 晃(文芸評論家、ゲームデザイナー、東海大学文化社会学部文芸創作学科非常勤講師)

・倉数 茂(小説家、東海大学文化社会学部文芸創作学科准教授)

●時間・概要

・19:00開場 19:30開演

・SNSで〈フェイクニュース〉が拡散し、マイノリティに対する〈ヘイト〉が横行する社会にあって、いま読まれるべき〈文学〉とは何か? そのことを問い続けてきた文芸評論家・岡和田晃氏の過去10年の文芸批評をまとめた『反へイト・反新自由主義の批評精神』が刊行されました。 「政治と文学」を語ることが忌避され、批評と言えば「極右」「オタク(萌え)」「スピリチュアル」な言説がもてはやされる――そんな状況に抗う〈小説〉と〈評論〉のあり方について、東海大学文芸創作学科准教授であり新刊『名もなき王国』(ポプラ社)を刊行したばかりの小説家・倉数茂氏をゲストに迎え、対談形式で「新自由主義社会下における〈文学〉の役割」について縦横に語り合います。

●書籍販売とサイン会

岡和田・倉数両氏の新刊・既刊のほか、倉数茂氏の評論「北方幻想――戦後空間における〈北〉と〈南〉」が収録されている岡和田晃編『北の想像力――《北海道文学》と《北海道SF》をめぐる思索の旅』(寿郎社、定価8100円[税込])等を販売いたします。 またイベント終了後には、お二人のサイン会も行います。

(終了時刻は20:45頃を予定しております。)

 

【講師紹介】

岡和田晃(おかわだ・あきら)

1981年、北海道生まれ。早稲田大学第一文学部卒。筑波大学大学院人文社会科学研究科で修士号取得。 文芸評論家、ゲームデザイナー、東海大学文化社会学部文芸創作学科非常勤講師。 2010年、「「世界内戦」とわずかな希望――伊藤計劃虐殺器官』へ向き合うために」で第5回日本SF評論賞優秀賞受賞。2016年、『破滅の先に立つ――ポストコロニアル現代/北方文芸論』で第50回北海道新聞文学賞創作・評論部門佳作受賞。 著書に『向井豊昭の闘争――異種混交性の世界文学』(未來社)、『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷――SF・幻想文学・ゲーム論集』『「世界内戦」とわずかな希望――伊藤計劃・SF・現代文学』(以上、アトリエサード)、編書に『北の想像力――《北海道文学》と《北海道SF》をめぐり思索の旅』(寿郎社)、『アイヌ民族否定論に抗する』(共編、河出書房新社)など。

・倉数茂(くらかず・しげる

1969年、兵庫県生まれ。早稲田大学第一文学部卒。東京大学大学院総合文化研究科で博士号取得。 小説家、東海大学文化社会学部文芸創作学科准教授。 博士号の取得後、中国大陸の大学で日本語を学ぶ学生を対象に5年間日本語を教え、帰国後の2011年、『黒揚羽の夏』(ポプラ社)でデビュー。 そのほかの著書に『魔術師たちの秋』(ポプラ文庫ピュアフル)、『始まりの母の国』(早川書房)、『私自身であろうとする衝動――関東大震災から大戦前夜における芸術運動とコミュニティ』(以文社)がある。

 

★入場料はドリンク付きで1000円です。当日、会場の4F喫茶受付でお支払いくださいませ。

※事前のご予約が必要です。1階サービスコーナーもしくはお電話にてご予約承ります。

トークは特には整理券、ご予約のお控え等をお渡ししておりません。

※ご予約をキャンセルされる場合、ご連絡をお願い致します。(電話:03-5956-6111) 

 

■イベントに関するお問い合わせ、ご予約は下記へお願いいたします。

ジュンク堂書店池袋本店 TEL 03-5956-6111 東京都豊島区南池袋2-15-5

 

 

 

名もなき王国

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