小林よしのり氏らのアイヌ否定について【立憲民主党 広報部長・坂上隆司さま宛】

立憲民主党が、ネットを徘徊する怪物「差別的デマ」は、いま誰を餌食にしているのか(古谷 経衡) | 現代ビジネス | 講談社(2/4)に関し、小林よしのり氏らの抗議を受けて、実質的にその内容を否定する旨を、Twitterで告知していました。

こうした現状を憂慮し、岡和田晃立憲民主党の公式サイトから、以下の文章をメールで送りました。

以下、全文転載させていただきます(規定の800字に収めてあります)。

現時点における立憲民主党の対応は、事実関係の精査を怠った問題あるものとなってしまっています(小林よしのり氏が「アイヌ特権(利権)」デマの煽動をしていないという、誤った認識を流布するものになっています)。

小林氏サイドの抗議に怯むことなく、毅然とした対応を期待します。(岡和田晃

小林よしのり氏らのアイヌ否定について【立憲民主党 広報部長・坂上隆司さま宛】

 

 文芸評論家・東海大学講師の岡和田晃と申します。『アイヌ民族定論に抗する』(河出書房新社、全国学図書館協議会選定図書)の共編者です。
立憲民主党の公式ツイッターが、「「現代ビジネス」に掲載された古谷経衡氏の記事「ネットを徘徊する怪物『差別的デマ』は、いま誰を餌食にしているのか」を党公式アカウントがリツイートた」件について「不適切」と意思表明していました。
しかしながら、小林よしのり氏らは2008年からアイヌの民族性を否定し、アイヌに「特権(利権)」があると主張してきました。2014年に、札幌市議(当時)が「アイヌ民族なんて、いまはもういない」、「利権を行使しまくっている」とSNSに書き込んで社会問題になった際、それを支持しています(「慰安婦問題と同じ道をたどる『アイヌ民族』問題」小林よしのりライジング Vol.99」(2014年)。
https://ch.nicovideo.jp/yoshirin/blomaga/ar613868?fbclid=IwAR1nqzPPruf4DgqEVEZZpCVU6CEMErCDqag5gAyM2V7jsGB7dVrh4E8hsc8
それゆえ2015年に刊行された『アイヌ民族否定論に抗する』では、さまざまな領域の専門家が多角的に、小林よしのりら氏のアイヌ否定は学術的に何ら根拠がなく、また「アイヌ利権」が事実無根ということを、論証しています。にもかかわらず、小林氏らは持論を撤回することなく、『対決対談! 「アイヌ論争」とヘイトスピーチ』(創出版、2015年)等でも従来の主張を繰り返しました。
それゆえ、古谷氏の記事に見られる、「2014年から2015年頃」に「「アイヌ特権」という新たなデマ」を流布する「運動の最前衛に立ったのは、漫画家の小林よしのりであった」という認識は、事実レベルで何ら間違ってはおりません。

 

大杉重男氏への応答

 

 「図書新聞」2018年10月20日号に掲載した「〈世界内戦〉下の文芸時評 第四四回」に対し、文芸評論家の大杉重男氏から、氏のウェブログ「批評時間」において反論があった(「文学を愛することについて」、2018年11月15日付け)。「図書新聞」の紙面では紙幅が限られているので、私のサイトをもって応答を試みる。

 

・応答の前提

  まず、はっきりさせておきたいこととしては、大杉氏は私の評について「批判的な」評と書いてあるが、実は大杉氏が引用した箇所の前段には、「朴裕河の『帝国の慰安婦』をめぐる論争の整理には説得力を感じさせる記述も多い」と、大杉論を評価するコメントがついている。そのうえで付された時評なので、「批判」とみなされた部分は、議論の解像度を上げるために限られた紙面でなしえた、読み手からの(ささやかな)提案にほかならない。

 

アイザック・アシモフについて

  私が時評で述べた「アシモフが基盤になることからもわかるとおり」というのには、二つの含意がある。第一に、そもそもアシモフの「ロボット工学三原則」は、あまりにも有名がゆえ、それらを応用した議論や作例は事欠かない。にもかかわらず、大杉氏がそれらの歴史的蓄積を押さえているとは、(応答を読んでも、なお)まるで思えないことを問題視している(*)。そもそもの話、アシモフを「あっけらかんとした戦争の反省なき」作家と捉えることは、本当に正しいのだろうか? クリシェにすぎないと思う。アシモフユダヤ系であり、それによって生じた陰影は、よくテクストを読むと、かなり如実な形で反映されている(むしろ、アシモフを本当に「読む」のであれば、ナボコフあたりと並べるのが的確かもしれない)。

 噛み砕いて言うと、実のところ私がアナクロだと書いたのは、アシモフそのものに対してでは、必ずしもない。真に問題なのは、アシモフを「文学」としてではなく、「エンターテイメント」などと短絡的に言い張り、そうした解釈枠について反省的に問うことがない批評性の不足にこそある。

 「アシモフが「アナクロ」だということは日本国憲法も「アナクロ」」と大杉氏はさらりと述べているが、私は日本国憲法を「アナクロ」などとはまったく書いていない(このさりげない飛躍には抗議しておく)。強いて言えば、日本国憲法を解釈するために大杉氏が用いたツールが錆びついており、磨き直していないのではないか、と指摘しているのである。

 というのも、これは第二の問題につながるのだが、「ロボット三原則」で「日本国憲法」を解釈するという試みを、大杉氏は「早稲田文学」で連載していた(「「ロボット工学三原則」と日本国憲法――「日本人」の条件(1)」など)、連載は二〇〇八年に開始されたもので、このときは新鮮な気持ちで読めたものの、少なからず状況が変わった現在においては、題材こそ新し目のネタを使いながら、理論的な部分に関してはほとんど変化がないように見えた。そのように読めてしまう理由の一つは、「「日本人」の条件」がまとめて本になっていないからかもしれない。

 「子午線」第2号のインタビューで大杉氏は、連載をなかなか本にできない趣旨の苦労を述べていたものと記憶するが……いまはオンデマンド出版でも電子書籍でも、それこそ手段には事欠かないし、文学フリマや日本近代文学会(私も会員である)の物販スペースなど、いくらでも発表の場はあるだろう。もし、『小説家の起源』および『アンチ漱石』に続く、大杉氏の第三評論集が出るのであれば、喜んで私はお金を支払いたいと思う。

 

・J・G・バラードについて

  私が時評でJ・G・バラードの「終着の浜辺」について触れたのは、それは「歴史の終わり」そのものがテーマだからである。そこに描かれているのは「廃墟趣味と抒情性」などではまったくないし(このような読み方は、いくらなんでも浅薄にすぎる。せめて、筒井康隆の放言を解析するくらいの熱量は示してほしいものだ)、「冷戦時代の歴史性を色濃く反映」していることは否定できないものの、より強くテクストが描こうとしているのは、1945年8月5日・6日に広島へ落とされた「核」である(参考:バラードの訳者・増田まもる氏の批評 http://blog.tokon10.net/?eid=1052625)。

 ちなみに、バラードは上海時代に収容所体験を経ており、それは「自伝」的な虚構である『人間の奇跡』に詳しい。いまはバラードの短篇は全集も出ているので、どうせ読むならば「SFの専門家」とは「議論を避ける」などとは言わず、しっかり読んでほしいものだ。

 

筒井康隆の問題発言について

  「慰安婦」をめぐる筒井康隆の問題発言については、私は「図書新聞」2017年5月20日の、第二七回の時評で記している。

 大杉氏が、あえて「トリヴィアル」な部分にこだわりたいというのは理解し、そのこと自体は否定するものではまったくないが、私が筒井発言を詳細な言及に値しないと考えるのは、『モナドの領域』に続く近作にからめての文脈である。

 

・「ヘイト」について

  大杉氏は、「「ヘイト」は何時でも必ず「ヘイトに対するヘイト」」と述べているが、本質主義的な体裁をとった「どっちもどっち論」の変種としか思えなかった。いまの状況において有効性を持つとは思えないし、何より説得されない。

 そもそも、“文学嫌い”というのは、「ヘイト」でも何でもない。ヘイトスピーチの「ヘイト」は、「人種、皮膚の色、世系又は民族的もしくは種族的出身に基づく」(人種差別撤廃条約1条1項)差別を、例えば指すものである。その意味で、大杉氏の論考も、引き合いに出された綿野恵太氏の論考も、「ヘイト」ではまったくない。

 私が大杉氏の論を“文学嫌い”と書いたのは、『アンチ漱石』で大杉氏が打ち出していたようなカノン批判が、より縮小された形で――今回のアシモフやバラードへの言及に顕著だが――論じる対象へのリスペクトを感じさせないものとして、再生産されていた点を指摘している。なるほど、筒井発言については「文学的」に読んでいるかもしれないが、筒井の近作についても、同様の深読みがほしいものだ。そのような姿勢では、「文学に愛されたい」と言っても、ありていに言って、まあ難しいのではないか(受容の準備ができておらず、認知的不協和に陥るだけである)。

 なお、なぜか渡部直己氏が引き合いに出されているが、理解不能である。氏のセクハラを私はまったく支持していない。理由については、「図書新聞」2018年7月14日号の「〈世界内戦〉下の文芸時評 第四一回」で記した。それに、私は大杉氏が言うような意味で「文学」を「愛した」ことはついぞない。

 

・「東浩紀以降の批評家」について

  最後に付言すると、私のことを「東浩紀以降の批評家」などと言われても、東氏に何らポジティヴな影響を受けていない私は、そのようなラベリングを公にされることに対し不快感を表明せざるをえない。

 それを言うなら、私は2002年度、早稲田大学で大杉氏が開講していた『シュレーバー回想録』の講読を受講していたことがある。とかく休講の多い印象が残っているが、刺激を受けた部分も多く、大杉氏の批評を能う限り読むきっかけとなった。大杉氏が「群像」に書いた「神経言語論」(1999年)とリンクする部分が多い講義内容だったと記憶する。

 少なくとも、私は『シュレーバー回想録』を大杉氏によって意識するようになった。この経緯を鑑みると、あえて私のことを先行世代の批評家「以降」と書かなければならないのであれば……私に関しては「東浩紀以降」というよりも、「大杉重男以降」と評するほうが、「東浩紀以降」などとされるよりは、まだしも正確性の高い記述だといえる(そうせよ、と要請しているのではまったくない。念のため)。

 

(*)一点挙げるのであれば、宮内悠介『スペース金融道』では、「ロボット工学三原則」を(とりわけサイバーパンク以降の)ポストヒューマニズムの観点から読み替える試みがなされている。「純文学」の領域でも活躍する宮内は、『スペース金融道』を自覚的な「エンターテイメント」として書いている旨をさまざまなところで述べているが、それを真に受けて、もし本書を「エンターテイメント」としか読めないのだとしたら、問題だ。バラードがピンとこなかったらしい大杉氏には、本書を読んでいただきたいと思う。

 

 2018年11月22日 岡和田晃

※11月23日および12月6日、趣旨はそのままに、一部の誤記を修正した。

「アホフェミ」について(笙野頼子さんの見解)

 2018年10月18日、私はツィッターにて、以下のようなコメントをしました(コメントツリー形式になっていますので、クリックすればツリーの全体が読めます)。言及されるお店の(大学地下部室のような)アジール性を評価しつつ、それを他人に(とりわけ「女性」を「アホフェミ」などとラベリングして)振りかざす武器とするべきではない、という主張です。

 

 

 こちらのツィート、および、それに関連したやりとりを見た作家の笙野頼子さんから、ベルクを擁護する人たちと批判する人たちに関して、「本来は和解できる問題だと思います」、「和解してほしいと思います」としたうえで、不意に湧いてきた「アホフェミ」という罵倒表現について、示唆に富んだコメントをメールにて頂戴しました。

 というのも、笙野頼子さんの小説に出てくる「イカフェミ」という造語を「捕獲」する形で、「アホフェミ」が正当化されようとしたので、それについての「正しい解釈を述べたいのです」ということでした。

 私も、とりわけこの点に関しては、ジェンダーについての本質を突くものであり、大きく蒙を啓かれた(この問題について発言しようと思うに至った違和感が解消された)と考えましたので、以下、笙野頼子さんご本人の許諾を得たうえで、当該箇所をご紹介します。

 なお、文中で言及される『日本のフェミニズム』(河出書房新社)は、次の書籍です。全体的に良書で、私も「図書新聞」の2018年1月20日号の連載「〈世界内戦〉下の文芸時評」で論じたことがあります。

 (岡和田晃・文芸評論家)

日本のフェミニズム

日本のフェミニズム

 

 

 岡和田晃さま

 


 アホフェミってフェミの属性と関係ない嘲笑侮辱の言葉
 イカフェミがあるからアホフェミといってもいいといった男のツイッタラーがいたのでイカフェミの正しい意味をまず書きます。

 イカフェミは拙作に登場する偽のフェミニズムイカサマのイカ、偽という意味、それは原初的な女性の戦い、怒り、悲しみを乗っ取ってその本質や大切な部分を、無効化してしまう捕獲装置である。マスコミや研究の腐敗によって、本質を欠いたまま形骸化、巨大化したものである。これをすでにフェミではないとして小説の中で、私は十年以上前から批判している。同時期にロリフェミ、途中からはヤリフェミとも表現している。
 つまり私がもともとフェミという言葉をあまり使わず、ウーマンリブとか、女性解放という言葉を多用するのは、前世紀から一部のマスフェミが権力にこび、少数派にすぎぬのに代表としてふるまい、性表現万能的な立場だけを表面化していることを間違いだと思うから。その上に冷笑的で無神経であるケースがあるためそれを作中で批判している。『日本のフェミニズム』のインタビューを読めばわかる。
 前世紀既に、あるマスフェミ兼アカフェミがフェミ全部の代表化している風潮を、私は発言で批判している。
 ウーマンリブの時代に十代であった私は最初の怒りを大切にしたかった。昔はリブと言っていた。
 なので世間に流通している「大きいフェミニズム」を、その立場、方向性、真贋、過激さの程度、等から、作中で戯画化して批判したのである。
 「アホフェミ」などという人を見下した言いっぱなしの言葉とは違う。

 形容に関して、否定でも肯定でも、ラディフェミ、リベフェミ、ぬるフェミ、ガチフェミという言い方はあって良いと思う。程度や方向性をあらわすから。
 もしそのような語が立場の違う相手との罵り合いに使われるとしても、それは派閥や個人の議論のための言葉である。

 しかしアホフェミ、ブスフェミはない。
 フェミの立場、方向性、真贋とアホやブスという評価は関係ない。上から決めつけて威張っているだけだ。批判になっていない。批評性がない。

 アホフェミという言葉はむしろバカ女とかだめ母、毒嫁という言葉と同じものだ。

 

 笙野頼子

 

2018.10.29付記:私はこの記事を、クリティカルなポイントに絞り、かつ「煽らない形」で書いております。中傷の連鎖を断ち切り、またその渦中に笙野頼子さんを巻き込まないためです。コメントを参照する方は、この点を念頭に置いてください。(岡和田晃

迷惑行為を行う「書肆ブン」にご注意を!

<本エントリ末尾の追記もご覧ください>
 皆さまに注意喚起を兼ねて、お知らせをいたします。
 この「書肆ブン」というアカウントが、私によくわからない罵詈雑言を投げかけています。このアカウントは、私の知り合いの女性のところに、面識がない(ネット上でのやりとりもない)にもかかわらず、いきなり「きみは詩人になりたいんじゃないか、電話をくれ」、「●●さんに会え」といった内容の――あるいは、その女性の友人への中傷なども含む――執拗かつ一方的で、馴れ馴れしく意味不明なメッセージを送り続ける迷惑行為を繰り返していました。
 累計メッセージは数十通に及ぶようです。女性の方は、ほぼ返事をしていないにも関わらず、それが止まらない。
 恐怖を感じた女性から相談を受け、ハラスメントやDVの被害者救援に関わった経験のある私が、「当人が嫌がっていることはやめなさい」という旨を連絡したところ、「了解しました」という旨の返事がありました。その後、様子を見ていたところ、案の定、貼り付けたツィートのような罵詈雑言が飛んできた次第です。
 被害者へのメッセージは保存してありますので、悪化する可能性があれば、しかるべき措置も検討します。




2018.08.13追記;
 本エントリに関しまして、「書肆ブン」(大谷良太氏)のご友人である、詩人の久谷雉氏から連絡を受けました。
 久谷氏は大谷氏と本件に関してやりとりを行い、大谷氏も問題ある行為だったと納得されたようで、「被害者女性と岡和田にはもう関わらないようにする、申し訳ない」という旨の謝罪を、久谷氏経由で頂戴しました。実際、上記リンク先の暴言ツィートも削除されています。
 謝罪に関しては受け入れる構えですが、念のため、しばらく様子を見たいと考えています。

「ゲンロン8 ゲームの時代」の間違いの指摘

 「ゲンロン8 ゲームの時代」、少なくとも、冒頭部の共同討議「メディアミックスからパチンコへ」は無理のある内容です。それについて、具体的な指摘を求める声がありましたので、以下、クリティカルなものに絞ってまとめました。公正を期すため、この原稿は「ゲンロン友の会公式アカウント」(https://twitter.com/genroninfo)にも送ります。



 株式会社ゲンロン御中


 岡和田晃と申します。 「ゲンロン8 ゲームの時代」所収の共同討議の具体的な間違い、代表的なものを指摘します。
 「出版とゲームが交差したJRPG」(https://genron-tomonokai.com/genron8sp/no1/)の章で、東浩紀氏は、「なぜ北米ではJRPGのような「物語的」で「文学的」なゲームが生み出されなかったのか(……)日本のメディアミックスはそもそもが出版社が主導です。メディアミックスがゲームのコンテンツを支配していたというのは、つまりある時期まで「出版の想像力」がコンテンツを支配していたということです。(……)けれどそんな環境は北米にはなかった。」と述べています。
 これは明確な間違いです。
 そもそも、世界初のRPGであり、『ウルティマ』や『ウィザードリィ』等のコンピュータRPGへ規範を提供した『ダンジョンズ&ドラゴンズ』の発売元・TSR社は、「JRPG」の誕生のはるか前から、ゲームを出版という形で提示していました。
 それ以前、シミュレーション・ウォーゲームも多くは出版という形で流通しており、そのようなスタイルが定着していました。
 英語圏のSF文壇やファンダムとも、長らく相互に影響関係があります。
 『ドラゴンランス』をはじめ、小説などとの自覚的連動も早い段階から進められており、「そんな環境は北米にはなかった」という断言には、控えめに言っても無理があります。もちろん、TSR社だけではなく、世界で2番めのRPG『トンネルズ&トロールズ』を出したフライング・バッファロー社をはじめ、多くの他社が同様の試みを行っております。
 ゆえに、そもそも北米で作られた段階からRPGは「物語的」で「文学的」な作品が多数あります。そして、こうした試みは、コンピュータRPGの歴史を語るうえで切り離すことはできません。
 以上は、私自身が「SFマガジン」2018年6月号(早川書房)の「『恐怖の墓所』のその先へ」などの原稿で長らく書いてきたことでもありますが、公正を期すため、拙稿以外の代表的な典拠を以下にあげます。英語文献・日本語文献を双方提示します。

・Appelcline,Shannon 『Designers & Dragons』(Evil Hat Productions,2015)
・Peterson,Jon『Playing at the World』(Unreason Press,2012)
Schick, Lawrence『Heroic Worlds』(Prometheus Books,1991)
・高梨俊一ほか『パラノイア非史1984-2016 および パラノイアに至るRPG の歴史 1974-1984』(CompNodes、2016)
・マイケル・ウィットワー『最初のRPGを作った男 ゲイリー・ガイギャックス』(ボーンデジタル、邦訳2016)
・ブラッド・キングほか『ダンジョンズ&ドリーマーズ』(ソフトバンククリエイティブ、邦訳2003)
多摩豊『次世代RPGはこーなる!』(電撃ゲーム文庫、1995)

 北米におけるゲーム出版史を無視し、「JRPGは純粋なゲーム史から出てきたものではなく、ゲームと出版が交差する場所から生まれたハイブリッドなジャンル」と言い張ることはできません。
 そもそも「JRPG」に限らず、「RPG」自体のルーツが「ゲームと出版が交差する場所から生れたハイブリッドなジャンル」だからです。
 このように歴史的前提が間違っているにも関わらず、「今日の共同討議の結論は出た気がするな(笑)」と話を進めるため、以後、「JRPG」に関する東氏のコメントが、少なからず見当外れなものになっています。
 「テーブルトークRPG」と「文学」や他メディアとの関係史を綴り、また関連した翻訳・創作・批評に携わる者として、学術や社会批評の装いをもった商業媒体で上記のような事実誤認が流布されるのは看過できず、具体的な指摘とさせていただきました。


 2018年6月21日 岡和田晃


※2018年6月23日 一部の誤記を訂正しました。また、ピンと来ない方のために解説しますと、今回「ゲンロン8」の共同討議で東浩紀氏が述べていたことは、「夏目漱石の小説はイギリス文学に影響を受けていない。イギリスに出版環境がなく「文学」と呼べるほどの小説も生まれなかった。文学は日本で発展して、価値を得た」みたいなレベルです。さらに言えば、見る人が見ればわかると思いますが、「TRPG業界人が身内を守るためになんか言っている」というアングルを作られないため、言及文献を調整しています。

2013年11月のイベントに関する中傷についての反論

 作家の佐藤亜紀氏がTwitterにて、しばしば私を名指しで、「卑しい人間」などと誹謗中傷を行っている
 これは納得のいく批判ではない。そこで、簡潔に事実関係を記すことにした。以下は、佐藤氏の人格や作品を貶めることを企図したものではないことを、あらかじめお断りしておく。



 Twitter上で佐藤亜紀氏に直接、理由を訊いたところ、2013年11月16日に、私が日仏会館で司会をつとめた「パスカル・キニャールを読む日本の作家」(佐藤亜紀×小野正嗣)について、当方の司会ぶりに不満があったのが根本の原因だということだった。
 しかしながら、上記イベントに関し、2013年11月17日のメールで佐藤亜紀氏からは、「いずれ是非今回の慰労会をと思っております。」、「特に嫌なこともなく、岡和田さんの司会ぶりは堂に行ったものでした。いずれ岡和田さんの出るイベントも見に行きたいものです。」(文脈に必要な最低限の引用)という賛辞が届いており、明らかな矛盾がある。
 さらに佐藤氏は、ツィッター「私は事前にも、直前にも、小野正嗣先生を交えた打ち合わせを頼んだ。が、あなたは拒否した。そして本番では、私が準備したものと重なりさえしない方向で話が進んだ。」とも書いている。
 私が事前に打ち合わせを拒否したというのは、はっきりと事実ではない。なぜならば、当該イベントのための佐藤亜紀氏との事前連絡は、すべてメールでやりとりをしており、その記録が逐一、残っているからだ。その数、40通をゆうに超える。
 準備の最初から佐藤亜紀氏の意向をうかがい、最大限の努力を尽くしてきた。質問内容も前日にレジュメで登壇者に配っていた。また、当日には登壇者それぞれが過去に発表したキニャール評を、当人の許可をとったうえで、参考資料として紙媒体で配布してすらいる。
 佐藤亜紀氏には、何かの勘違いなので手元にあるメールを参照して経過を確認していただきたい、と連絡したが、「あのメールアカウント、もうないんだよ」という返事だった
 ただ、私の手元には、当日のターブルロンドについても、録音データが残っており、どういうやりとりがなされたかは、克明に確認することが可能である。
 当該イベントそのものについては、ネット上には好意的な反響が見られた作家の仁木稔氏のブログも、当日の雰囲気をよく伝えている。司会者としては相応の手ごたえがあり、控えめに言っても成功だったと任じている。イベント後のやりとりの際、主催者側の姿勢も成功というものだったし、複数の編集者もイベントを観覧し、充実した内容だったと請け合っていた。
 ところが、佐藤氏は大きく意見を変え、岡和田によって自分がキニャールを前に虚仮にされた、と主張している。けれども、録音データを確認してもそのような強い非難が相当するような事例は一切見当たらない。終始、和やかな雰囲気のパネルであった。
 なお、氏が事前に希望されていたNG条項は、イベント内で佐藤亜紀氏を「SF・ファンタジー作家」として扱わない(紹介しない)ということであり、それは遵守した。
 私は自分が犯した過ちがあれば、反省して改善する構えである。しかしながら、明らかに事実ではない事柄に対しては、物書きとして、さらにはイベントに来てくれたお客様への責任があるため、嘘をついて「はい、そうです」と首肯することはかなわない。何より、公開の場で繰り返し事実ではないことを名指しで流布されるのは、真に受ける人も出てくるので迷惑している。
 そのため、最低限の事実に関して、この場で記録しておくことにした。

【但し書き】
 本エントリは、2017年10月末日に本ブログにて一般公開する予定であったが、もう少し様子を見るべく、非公開措置にしていた。しかし、2018年7月現在になっても佐藤亜紀氏が同様の誹謗を繰り返しており、そればかりか、岡和田が特定の人物の「手下」として他者を中傷する人物であるとも書いていることが判明した。前者については、上記のエントリで説明を記したが、後者についても、事実ではない。岡和田晃は誰の「手下」でもないからである。そのため、非公開措置にしていた本エントリを、バックデイトの形になるが、防衛措置として公開することにした。

岡和田が『虐殺器官』読書会で参加者の声を無視した、というデマについて

 Twitter上にて“岡和田が自分の主催した『虐殺器官』読書会で参加者の声を圧殺し、「自分なりの伊藤計劃論を書きたかったから無視した」との開き直った理由づけをしていた”という趣旨の発言が流れていると、心配した友人が私に教えてくれました。
 しかしながら、そもそもの話、岡和田はこれまで『虐殺器官』の読書会を主催したことはなく、むろん、流布されているような行為や発言を行った事実もありません。
 批評に携わる者としてデマゴギーの拡散には強く抗議するとともに、その旨を文章として書き記しておきます。
 (2016年6月20日 岡和田晃