「SFマガジン」2015年12月号の「てれぽーと」欄に掲載いただきました。

 「SFマガジン」2015年12月号にて、同10月号の論考「ボンクラ青春SFとしての『虐殺器官』〜以後とか以前とか最初に言い出したのは誰なのかしら?〜」(前島賢)に顕著な、ある種の論調に対して、批判と問題提起を行いました。この問題は雑誌という公器におけるパブリックな議論として進めていくのが最良と判断したからです。詳細は12月号の「てれぽーと」欄をご覧ください。「SFマガジン」はこの「てれぽーと」欄(投書、意見交換欄)で意見表明をするという伝統的な文化があり、過去、私も何度か活用させていただきました。実に貴重なものだと思います。
 拙稿を掲載に値すると判断いただいた編集部、コメントをいただいた塩澤編集長、読んだよと連絡を下さった方々にこの場を借りて感謝いたします。

2015.12.30追記:翌日2016年2月号の「てれぽーと」欄には前島氏の反論はなかったのを確認しました。この事実をもって、私が批判した「界隈」が、無根拠な放言を繰り返していることが、立証されたに等しいと、私は受け取りました。

「三重県志摩市公認萌えキャラクター「碧志摩メグ」の公認撤回を求める署名活動」に賛同します&笙野頼子さんのコメント

 私はChange.orgで繰り広げられている「三重県志摩市公認萌えキャラクター「碧志摩メグ」の公認撤回を求める署名活動」に賛同しています。海女という職業が春画の時代から性的な表象を付されてきた歴史的経緯を鑑みれば、どう見ても行政がその負の歴史を黙殺していると、解釈せざるをえないからです。(なぜか服の上からでも透けて見える)乳首や性器が出てこないのでOK、という類の言い逃れが仮にあるのであれば、そんな屁理屈は通用しないと心得るべきでしょう。
 ふだん署名の際には、私は純粋に「数の一員」であることが大事だと思ってコメントは書かないのですけど、地元ご出身の笙野頼子さんがコメントを寄せておられ、内容的に重要性がきわめて高いものと考えます。もとのサイトだとすでに掘り出すのが困難になってしまっているので、こちらに採録しておきます(読みやすくするためレイアウトを少し整形しています)。

 三重県出身の文学者です。大昔確か芥川賞を受賞した二十年以上も前、県の国際化委員とやらになってくれと頼まれ断っています。そしてその後の、国際観光都市の今のレベルが、結局はこれ、ということなのでしょうか。ひどすぎます。
 いわゆる性表現の自由の問題以前でしょう。つまり、1公的機関が2特定の職業の女性について3その女性がまだ子供のうちから4性的玩具とみなせと推奨している。5じつに明らかな職業差別。
 そんな差別による性的侮辱を公的権力が行っている。
 私が三重県にいたころの記憶だと、海女の方は頭脳明晰で勇敢、我慢強く、母系を大切にし、家計を支え、身内の女の子に技術とプライドを伝授する存在であった。かつての男尊女卑の時代や風潮の中でさえも、女の子が生まれると祝福し喜んだ。また海女はベテランほど尊敬されてきた。なぜその代表キャラが見習いなのか。市長は海女が少数派であることから、選挙にひびかないとなめてかかり、特定の職業の女性をつぶしにかかったのか。なんという卑怯な弱い者いじめだろう。これでは国際観光都市どころか国辱談合都市、いい笑いものです。
 (笙野頼子
 もっと長く書きたいのですがあまりにパソコンに弱く、ネットの署名でも失敗しそうなのでこのくらいにしておきます。私はニュースに気付くのが遅かったのですが、それでも体調が悪くなりました。皆様さぞかしお疲れのことと存じます。どうかお体をお大切に。
 なお、メールアドレスは絶対非公開でお願いいたします。

砂澤陣氏のブログ「後進民族アイヌ」の著作権侵害と誹謗中傷に抗議します

 砂澤陣氏が、自身の運営するブログ「後進民族アイヌ」における2015年3月26日のエントリ「東京新聞・林啓太とジャーナリスト岡和田晃達の腐臭・其の壱」にて、岡和田晃東京新聞(2015年3月23日夕刊)に寄せた「アイヌ民族否定論の背景」記事の全文を、写真という形で、こちらに断りなく誰にでも見られる具合に違法なアップロードをしています。
 のみならず、「正義の味方を演じたい偽善記者と自称ジャーナリスト」、「自分達が正義と思い込めば、それが嘘であろうが出まかせであろうがルールを無視してでも正義の代弁者を演出したいらしい。」などと、無根拠な誹謗中傷を行っています。


・後進民族アイヌ、2015年3月26日のエントリ「東京新聞・林啓太とジャーナリスト岡和田晃達の腐臭・其の壱」
http://koushinminzoku.blog117.fc2.com/blog-entry-343.html#cm


 新聞著作権協議会が明示しているように、新聞記事には著作権が働いており、とりわけ「後進民族アイヌ」でなされているような誹謗中傷のために無断で使われるのは、許されるものではありません。
 さらには、岡和田晃は当該ブログ記事のタイトルおよび本文にあるような「ジャーナリスト」と「自称」したことは一度もなく(記事内のプロフィールでもそのような肩書は用いられていません)、加えて砂澤陣氏はTwitterでは、私を「東京新聞の記者」と言っています。このように支離滅裂なので、そもそも記事をまともに読めていない(読んでいない)と指摘されても、やむをえないでしょう。実際の「後進民族アイヌ」内での批判とされるものについても、「何ら取材をせず」、「欠片も取材せずに」などと書くだけで、まるで具体的な根拠を伴わず、誹謗中傷の域を出るものではありません。

 また、別に難癖をつけられている部分について、東京新聞の「アイヌ民族否定論の背景」の記事内で個人名を伏せているのは、媒体の意向によるものだと、2015年3月24日の時点で私は明記しています
 

 以上の理由により、岡和田晃は砂澤陣氏および「後進民族アイヌ」の著作権侵害と誹謗中傷に強く抗議します。


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 2015年3月26日
 岡和田晃
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追記1:同エントリで、非公開の「本名」が無断で(かつ、中途半端に)暴露されている香山リカ氏のツィートも、参考にご紹介しておきます。


追記2:問題点がFC2事務局に認められ、当該エントリごと削除されました(3/26、17:32確認)。拡散いただいた皆さん、ありがとうございました。


追記3:全文転載を除いて記事が再度アップされたようです(3/27、9:10確認)。しかし、砂澤陣氏と「後進民族アイヌ」が著作権を侵害し誹謗中傷を行なったことが認められた、という事実は確かに残りました。

「SFマガジン」2014年8月号のオールタイム・ベストSFのプロ投票に参加しています。

 「SFマガジン」2014年8月号の「オールタイム・ベストSF」にプロとして参加しています。とはいえ、とても絞りきれませんので、選考基準については、「原則として一人の作家につき一作品」、「SFプロパーという自認がある書き手(SF専門誌掲載なので)」という縛りをかけています。その他、カテゴリーごとに明確なコンセプトワークを設定いたしました。これは「隠し味」で、記名投票というのはそこを見るのが面白いと思いますから、ブログでネタを割ることは避ける次第です。

S-Fマガジン 2014年 08月号

S-Fマガジン 2014年 08月号

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2014/06/25
  • メディア: 雑誌
 また、同号には「SFセミナー2014」のレポートが掲載されています。私が司会をつとめた昼企画2コマ目、「「世界内戦」下、SFに何ができるか」は、鈴木力さんがレポートを執筆されています。このレポート内で、仁木稔さんのウェブログにある「岡和田晃氏への応答」が紹介されています(なお、レポート掲載を受けて、仁木さんは「あくまで岡和田氏の評論(およびSFセミナーでの発言)に触発されたわたしの意見で、氏の考えを否定するものではない」という補足もなされています)。
 この「応答」について色々と思うところはありますが、岡和田からの具体的な再応答については別のイベントで行うことができたらということで調整し、前向きに進行しております。正式に決まり次第、告知させていただきます。
 関係して、仁木稔さんのウェブログにある「SFセミナー2014レポート」について、事実誤認らしき箇所について、私の立場から訂正をさせていただきます。
 まず質問内容についてですが、岡和田が仁木稔さんと樺山三英さんに「事前打ち合わせにない質問をしてきた」という記述は遺憾というほかなく、私がこれまで各種イベントに出演してきた経験を鑑みても、質問内容は充分に事前相談の内容の範囲に含まれていると、自信をもって言うことができます。
 続いて、夜の部一コマ目の企画出演について仁木さんが知らなかったということですが、この点について事実のみを書いておきますと、SFセミナーは例年夜の部一コマ目は昼の部の続きとなっており、仁木さんは過去にも何回か、合宿企画の参加経験があります。加えて私からも仁木稔さんに、企画出演について事前に電話でお伝えしておりました。

【追記】2014年10月に行われた日本近代文学会のパネル「〈世界内戦〉と現代文学」が、「SFセミナー2014」の実質的な後続企画でした。

sfwj.jp

“論考が気に入らないから執筆者を殺せ”という暴言へ抗議します


 先だって「Book News」に掲載いただいた拙稿「SF・評論入門3:「伊藤計劃以後」とハイ・ファンタジーの危機――未来は『十三番目の王子』の先にある!」について、公開後、Twitter等のソーシャルメディアや個人メールにて、各方面から反響があり、さまざまな方からご意見・ご感想をいただくことができました。
 寄せられた反響からは多くを学ぶことができ、粗削りな試論ながら公開した意義はあったと愚考しています。
 逐一追えてはいませんが、感想をいただいた皆さま、そして拙文をお読みいただいた皆さまに、心より感謝します。


 ただし、ご批判のなかには、残念ながら常軌を逸したものがあります。
 書き手について「死ね」と書きつける方がいらっしゃるのです。
 たとえば、魂木波流(@ninian_oneil)氏はTwitter上で、次のように述べておられます。

さっきからこれについてなんやかや言ってるんだけど、ちょっと今死ねばいいのにくらいに思ってる。>SF・評論入門3:「伊藤計劃以後」とハイ・ファンタジーの危機――未来は『十三番目の王子』の先にある!:岡和田晃
https://twitter.com/ninian_oneill/status/358271645225467904

 「死ね(ばいいのに)」。これは、許される言葉なのでしょうか。
 ただ、魂木波流(@ninian_oneil)氏は、前後のTweetでご自分のファンタジー観を述べておられます。それが「SF・評論入門3」と見合わなかったがゆえに言葉が過ぎた、という見方もできないこともなく、特にめくじらを立てるほどではないかもしれません。


 しかし、次に見る鉄山幸浩(@poponcar)という方のTweetはどうでしょう。

クソ読書感想文だ! 石を投げろー!! http://www.n11books.com/archives/30455265.html
https://twitter.com/poponcar/status/358215256125865987

面白おかしく言ってみたけど岡和田をいい加減黙らせろってことですよ。具体的には体が冷たくなるまで石をぶつけ続けるとかの方法で。
https://twitter.com/poponcar/status/358215916229627906)(https://mobile.twitter.com/poponcar/status/358215916229627906

 鉄山幸浩(@poponcar)氏のTweetでは、「SF・評論入門3」の内容の批判の度を越え、「具体的には体が冷たくなるまで石をぶつけ続けるとかの方法」で「岡和田をいい加減黙らせろ」と書かれており、特定個人を物理的に殺害するよう不特定多数へ教唆する文章になっています。


 いかなる理由があれども、特定個人を殺すように煽動する発言は、決して許されないでしょう。
 これは「言論の自由」とは、まったく別の話です。それは言説の根本を破壊する行為だからです。
 大げさに思われる方もいるかもしれません。また、「死ね」「殺せ」と言われたからといっても、ただちに人は死にません。
 けれども、憎悪をもって投げかけられた「死ね」「殺せ」という言葉が野放しにされた結果、それが新たな憎悪を誘発し、秘められた暴力性が不意に爆発することで、やがて現実に「死」をもたらすという事態は、もはや珍しいことではなくなっています。
 ゆえに私は文芸批評を手がける一個の人間として、このような殺人教唆ソーシャルメディアを悪用した極度に暴力的な発言に、強く抗議いたします。


 乱文をお読みいただいた皆さまに、深く御礼申し上げます。

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 2013年7月24日

  岡和田晃

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*2013/7/24、25、27 一部修正、題も修正しました。

Togetterまとめ「ホラーとミステリの相性の悪さ??」に抗議します

 TogetterというTwitterの発言をまとめるウェブサービスが存在するのをご存知でしょうか。
 そのTogetterに「ホラーとミステリの相性の悪さ??」というまとめがあると、Twitterのタイムラインで回ってきたのですが、実際に覗いてみて驚きました。
 私のTwitterでの発言が、読む人の誤解を招くような文脈で配置されていたのです。 


・Togetterまとめ「ホラーとミステリの相性の悪さ??」
http://togetter.com/li/370949


 もともとは、希有馬氏(@KEUMAYA)の発言、

“この世には「ホラーとミステリは相性が悪い」なんて世迷い言を吐く自称文芸評論家がいるのか……ネットは広大すぎる………Zガンダム種死のパクリ以来の衝撃”(https://twitter.com/KEUMAYA/status/245056488505241600

という発言を出発点と解釈した当該Togetter記事の編集者、ダグラスオウヤン星団(@D_Ouyang、https://twitter.com/D_Ouyang)という方(フォロー数と被フォロー数、ツィート数すべてゼロ、自己紹介もないので、どういう方かは不明)が、希有馬氏の言う“「ホラーとミステリは相性が悪い」なんて世迷い言を吐く自称文芸評論家”が私のことを指していると認識し、独自の判断で編集を行なったようです。


 ところが、私は“ホラーとミステリは相性が悪い”などと、一言もTwitterに書いてはおりません。
 私が書いたのは、

“(前略)「ミステリ」と「ホラー」は原理的に相反するものなので、考察がきわめて困難です。にもかかわらず、『火刑法廷』のような融合例がある。私の見解は『21世紀探偵小説』収録論文にまとめました。”(https://twitter.com/orionaveugle/status/244663610738098176

 ということです。
 この“「ミステリ」と「ホラー」は原理的に相反する”という箇所を、もう少し噛み砕いて説明しますと、“「ホラー」は読者に恐怖を与えるが、「ミステリ」はそうした恐怖へ合理的な解決をもたらす”がゆえに、片方の要素に比重をかければ、もう片方がなおざりになってしまうことを意味します。私が“「ホラー」の原理と「ミステリ」の原理は相容れない”と思ったのは、ひとえに、このためです。むろん、これはあくまで原理ですので単純化していますが、煎じ詰めればこの対立が、「ミステリ」と「ホラー」の関係をきちんと論じることを難航させているものと思います*1。現に、「ミステリ」と「ホラー」という二項の軸だけで考えるのでは、すぐに行き詰ってしまうでしょう。


 私がこの問題を考える突破口になりうると考えたのは、ベテランのミステリ作家で、自身、多数の評論を書いてもいる島田荘司氏の評論です。氏は、評論集『21世紀本格宣言』で、ミステリを「論理軸(論理−情緒)」と「幻想軸(幻想−現実)」の二軸をもってチャート式(四象限)に分類しました。四象限のどこに位置するのか、「論理軸」と「幻想軸」に挟まれた一つのグラデーションとして、小説を捉えることができるようになりました。

21世紀本格宣言 (講談社文庫)

21世紀本格宣言 (講談社文庫)

 この考え方は、「ミステリ」や「ホラー」の境界を考えるためのツールとしても有用だと思い、私は論集『21世紀探偵小説』に収録された拙稿「現代「伝奇ミステリ」論――『火刑法廷』から〈刀城言耶〉シリーズまで」では、この島田荘司氏の分類などを参考にしつつ*2、“「ミステリ」と「ホラー」の融合”を創作の出発点に置いたという作家・三津田信三氏の発言を皮切りに、「ミステリ」と「ホラー」の境界を――ゴシック小説やエドガー・アラン・ポーコナン・ドイルの時代にまで遡行して――作品と引き比べながら具体的に論じています。拙い部分は多々あると思いますが、少なくとも、ひとつの叩き台を作ることができたのではないかと自負しております。
 「現代「伝奇ミステリ」論」で中心的に扱われるのは、主にジョン・ディクスン・カー『火刑法廷』、ウンベルト・エーコ薔薇の名前』、二階堂黎人『聖アウスラ修道院の惨劇』、京極夏彦百鬼夜行〉シリーズ、道尾秀介『背の眼』、古泉迦十『火蛾』、殊能将之黒い仏』や『樒/榁』、テレビドラマ『TRICK』、麻耶雄嵩『隻眼の少女』、そして三津田信三〈刀城言耶〉シリーズなど。「新本格」(第三の波)以降の日本作家が中心です。その際のキーワードは、例えば横溝正史の〈金田一耕助〉シリーズのような「伝奇ミステリ」です。
21世紀探偵小説 ポスト新本格と論理の崩壊

21世紀探偵小説 ポスト新本格と論理の崩壊

 なお、拙ツィートにも書いていますが、なかでも「ミステリ」と「ホラー」の関係を考えるうえで、ジョン・ディクスン・カーの『火刑法廷』が重要です。これは、「ミステリ」と「ホラー」を完璧なバランスで融合させるという、きわめて困難な試みを成功させた逸品でしょう(【以下ネタバレ注意】)。
火刑法廷 (ハヤカワ・ミステリ文庫 5-1)

火刑法廷 (ハヤカワ・ミステリ文庫 5-1)

 驚くべきことに、この作品は「ホラー」として読んでも首尾一貫しており、同じ話をそのまま「ミステリ」として読んでも、きちんと整合性がとれているのです。『火刑法廷』は実際、よく、錯視をもたらす騙し絵「ルービンの壷」に準えられます(http://www.brl.ntt.co.jp/IllusionForum/v/rubinsVase/ja/index.html)。
 「ホラー」と「ミステリ」の融合を真摯に考えた〈刀城言耶〉シリーズは、はたして『火刑法廷』を超えることができたのか。拙論の裏テーマは、ずばり、そのことです。
幽女の如き怨むもの (ミステリー・リーグ)

幽女の如き怨むもの (ミステリー・リーグ)


 もとよりTwitterは長文を書くのに向いたメディアではありません。それゆえ、拙ツィートでは、(私の考えを詳しく説明した)このテーマでまとまった論文が収められている出典を示すことで、詳細の解説にかえさせていただきました。


 にもかかわらず、このTogetterによって、私があたかも「ホラーとミステリが相性が悪い」と触れ回っているような印象操作がなされ、実際のところ私がどう考えたかなどまるで考慮されず、話が一人歩きするような事態がもたらされてしまっています。そもそも、希有馬氏が示した「自称文芸評論家」が、私のことだと明示されていないにもかかわらず、です*3 9/11の正午時点で、ページビューは8500近くにのぼり(追記:後に10000を突破)、Togetter記事の印象操作を真に受けてしまっているような例が、残念ながら、多々見受けられています。


 私は文芸批評を手がける一個の人間として、このようなデマゴギーに、強く抗議します。
 「ミステリ」と「ホラー」について、いくら議論を重ねようと、ただちに人は死にません。しかしながら、“言っていないことをあたかも言っているように伝播させる”デマゴギーそのものは、ともすれば、実際に人を殺しうるだけの危険性を秘めているからです。いささか大げさかもしれませんが、故・伊藤計劃氏が『虐殺器官』で描いた「虐殺の言語」は、あなたのすぐそばにあるのです。
 少なくともこの抗議文によって、「ミステリ」と「ホラー」の関係が、より生産的に論じられるような環境が訪れることを、巻き込まれた当事者として祈念する次第です。


 乱文、長文をお読みいただき、深く御礼申し上げます。


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 2012年9月11日 アメリカ同時多発テロ事件から11年目の日に
  岡和田晃

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※2011/9/11;一部追記・表現を修正しました。

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【2012/9/12追記】


 事態に進展がありましたので、追記という形で取り急ぎご報告いたします。

 9/12正午時点で、問題としたTogetterまとめ「ホラーとミステリの相性の悪さ??」(http://togetter.com/li/370949)が削除されているのを確認しました。
 加えて、当該記事をまとめたTwitterアカウントであるダグラスオウヤン星団(@D_Ouyang、https://twitter.com/D_Ouyang)氏(フォロー数と被フォロー数、ツィート数すべてゼロ、自己紹介もないので、どういう方かは不明)はTwitterアカウントそのものを削除されたようです。

 本記事の拡散にご協力、ご声援をいただいた皆様、ご意見をお寄せいただいた皆様に、深く感謝します(Twitterでの関連Tweetは90RT強のご協力をいただきました)。今後も岡和田晃の仕事につきまして、ご理解とご支援のほどを、何卒よろしくお願い申し上げます。


 岡和田晃

*1:なお、ここでの「ミステリ」とは、ミステリ評論の主題となりうることが多い「本格ミステリ」を指しています

*2:ただし、直接にチャート式で作品を分類しているわけではありません。あくまで個別に論じています

*3:岡和田晃は商業媒体で継続的に評論の仕事をしており、その意味で「自称」ではありません

佐藤亜紀『ミノタウロス』とその解説をめぐる応答について


 佐藤亜紀ミノタウロス』文庫版の発売から、そろそろ1ヶ月が経過しようとしています。

ミノタウロス (講談社文庫)

ミノタウロス (講談社文庫)

 『ミノタウロス』は単行本の発売当初から、ウェブ上で「謎解き」(特に結末部の解釈)が行なわれてきた作品ですが、残念ながら意見が有機的な結び付きを見せることはなく、時間の経過とともにうやむやなまま収束していきました。
 それもそのはず、佐藤亜紀作品、特に『ミノタウロス』は、形式としての本格ミステリとは異なり、唯一の「正解」があるわけではありませんし、テクスト単体のみを射程に収めて「読み」を引き出すことを目的とした作品でもありません。
 その意見の集積自体に価値があるのはもちろんですが、その経緯をふまえたうえで意義のあることをしたかったので、私が提示した問題について、細切れの時間を使い、オンライン・オフライン問わず、議論を重ねることを続けてきました。私としては、さまざまな知見を得ることができました。対話を行って下さった方に、厚くお礼を申し上げます。
 ただ、一応の区切りは必要かと思い、現時点での、とりあえずの総括を行なってみました。

文庫版『ミノタウロス』発売直後からのTwitterでの応答


 まずは、『ミノタウロス』文庫版の発売直後から、主にGhost Sound(Twitter)上にて、『ミノタウロス』をめぐるやりとりが交わされました。その記録を公開しておきます。こちらは、概して好意的に受け取っていただいており、ありがたく思います。
 @tricken氏や@sorekara氏をはじめとした方々に興味深い知見をいろいろいただいております。
 流すのはもったいないので、ブログにおいても紹介させていただきましょう。

@tricken氏のまとめ「佐藤亜紀ミノタウロス』文庫版を読む」
http://togetter.com/li/21491


私がまとめた「『ミノタウロス』読書記録」
http://togetter.com/li/21987

 また、はてなダイアリーでは、id:Ooh氏や、id:tatsumidou氏にも高くご評価をいただきました。ありがとうございます。

否定的な評価


 続いて主として(解説に関する)否定的なニュアンスを含む反応をご紹介させていただきましょう。
 意見を下さった方は複数いらっしゃいました。
 主に対面やクローズドな環境において発せられた意見であり、書き手としての私を慮って下さったためか、端的に言って辛辣なものも含まれます。
 ご意見はまず、素直に呑みこむとして、そのうえで岡和田がその傾向をいくつかの傾向に要約し、もし同様の思いを抱いておられる(かもしれない)方のための便宜としまして、そうした意見への応答を、一般性を有したレベルにまで整理したうえで、提示させていただきました。
 質問の要約についての責任は岡和田にあります。また、言うまでもありませんが、質問者への個人攻撃を意図しているのではなく、あくまでも応答という意味で記した次第ですので、読まれるうえではご了承下さい(「これを言ったのは○○さんで〜」みたいなのも止めて下さい)。
 また、自分の書いたものについての応答になるので、どうしても自己弁護臭が漂ってきてしまいますが、そのあたりは大目に見ていただけましたら幸いです。

意見:使われている言葉がむやみにわかりづらく、読むのに苦労するが。


応答:私の至らなさはさておくとしても、すらすらと読めてすらすら抜けていくものではなく、じっくりと考えてもらう、そのきっかけを与えられるような解説を目指しました。この解説は、作者とのお友だち関係を示したり、単純なモデルに嵌め込んで「傑作」と持ち上げるたぐいのものではなく(もちろん、そうしたスタイルの中にも面白い解説はあります)、私の思考過程を示すことで、読まれた方に考えてもらうことが目的なのです。ですから、「答え」を安易に規定するような真似も、なるべく避けるようにしました。



意見:解説が異常に長い。3行でまとめられるようなものにすべきではなかったか。これでは売れないだろう。


応答:きちんと『ミノタウロス』を語るには、どうしてもこれだけの長さが必要でした。それでも語り足りないくらいです。売れるかどうかは、私は批評のシーンにあっては、マーケッターではないので詳しいところはわかりませんが、必ずこのスタイルの意義が伝わるものと信じております。批評家生命を賭けてもかまいません。
 また、3行でまとめたうえで、パパッと売りさばくという消費の仕方ほど、『ミノタウロス』への向き合い方と相反するスタイルはないでしょう。『ミノタウロス』は一過性のブームで終わってしかるべきテクストではなく、広く文藝の歴史のうえで、しかるべき位置を与えられ、長く人々に読み継がれるだけの強度を備えています。『ミノタウロス』を語るにあたり、3行でまとめてよしとするようなスタイルから外すという点は、残念ながら譲ることはできません。
 もし3行でまとめられる文章が必要なのであれば、帯文や裏表紙の惹句をご参照いただければ早いかと思います。



意見:文章が『ミノタウロス』よりもこなれていない。自分の言葉で書くべきではないか。


応答:『ミノタウロス』の文章より私の文章が劣るのは当たり前です。謙遜ではなく、解説は本文をサポートするものであり、いわば『ミノタウロス』に従属する、あるいは奉仕する類のものだからです。
 それをさておくとしても、今回の解説は評論というスタンスを取っているので、自ずから、小説の文体とは異なります。また、この文体は、読み手の思考を異化することを目的としており、加えて、小説の本文と解説では、言葉の機能する方向性も異なります。
 そして批評の言葉は常に作品に依拠するので、素朴な「自分の言葉」という観念は成立しえないのではないでしょうか。「自分の言葉」という時、その「自分」を成立させているものは、どこにありますか。そのレベルの考察こそが『ミノタウロス』には必要ではないかと考えております。



意見:P.364の作品列挙は、解説者の「売らんかな」精神が透けて見えて腹立たしいが。


応答:それは穿ちすぎというものです。幅が広がった近年の佐藤亜紀氏の活動を示すためには、『バーチウッド』の翻訳と、『小説のストラテジー』についての言及は不可欠だと考えております。『ミノタウロス』は批評的なテクストですが、その背後には、こうした作品との見えない連携もまた存在すると、私は考えています。



意見:なぜ『バルタザールの遍歴』や『天使』や『鏡の影』への言及があるのか。『ミノタウロス』の解説だからして、『ミノタウロス』内の文章についてのみ、語るべきではないか。


応答:作品史を参考にすることで、作風の変遷を追いかけてテクストのダイナミズムを取り出すことは、文藝批評におけるごく基本的な切り口です。むしろ『ミノタウロス』は、間テクスト性を経由したうえで、テクストそのものへ立ち返り、「読み」に噛ませることが前提のテクストだと私は理解しております。



意見:ミハイロフカについて語った後に、架空の地名だという言及がなされ、わかりづらい。まず最初に架空と断っておくべきではないか。


応答:『ミノタウロス』は小説ですが、ある意味、歴史書以上に、歴史の真実を捉えています。ロシア革命の影響下の歴史叙述においては、往々にして、歴史の変動に伴う暴力を捉えることができずにおりました(長谷川毅ロシア革命ペトログラードの市民生活』、「はじめに」)。小説という形でしか捉えられない歴史の真実もあるのです。そのうえ、私たちは『ミノタウロス』を、小説という形式を介して、歴史を感性的に捉え直したスタイルとしても理解しなければなりません。
 かような前提があるため、架空の地名の考察に導く思考の過程こそが、まずは求められるものと判断しました。一足飛びに結論を暗記する、受験勉強的なスタイルとは違うのです。しかし、参考にした歴史書の名前はわざと省きました。まずは小説としての歴史認識に立ち合っていただきたいと思ったからです。ぜひ、バーベリの『騎兵隊』や、ブルガーコフの『白衛軍』を読まれてみて下さい。



意見:P.380でネタバレをしている。解説から先に読む人への配慮がないのではないか。


応答:私はここはネタバレだとは思っていません。作者自身、「ネタバレ」を大事だと思っていません(参考:http://twitter.com/tamanoirorg/status/9779854744)し、『ミノタウロス』はそんなに単純な作品ではありません。
 モーリス・メルロ=ポンティは、クロード・シモンの『フランドルへの道』を「意識のスクリーン」として語りました。ある特定の歴史的事象と自らの体験を、スクリーンの上に多重投影するかのような視点で複合的に捉え直すこと。その視点は『ミノタウロス』にも通じるものがあり、むしろ結末からさかのぼることで、『ミノタウロス』の叙述の特異性とその意義を知ってほしいと思ったのです。



意見:ティタン神族の一員のパシパエを母に持つのに、なぜミノタウロスは「死すべき定めの人の子」なのか。


応答:「死すべき定めの人の子」にはモータル(Mortal)とルビを充てており、不滅者としての神々を意味するイモータル(Immortal)と対置される存在として解説しているからです。
 ティタン神族は、オリュンポス神族の有する支配性を欠いているため、「神」という側面よりも、「人」という側面をより多く分有していると解釈しました。ペルセウスならばその反対に、「半神」(Demigod)として語られるべきでしょう。



意見:歴史背景の解説くらいしか得るものがなかった。それならば、むしろ歴史の専門家に依頼したほうがよかったのでは。


応答:ご満足いただけなかったのは残念です。しかし、まずご依頼を聞いた際に、歴史の専門の方に書いていただいて、それで私が書くよりも素晴らしいものができたのだったら、ぜひお譲りさせていただきたく思ったことを告白しておきます。専門家というものは、専門の重要性をよく理解しています。領域の横断には慎重です。可能な限り慎重に振る舞うことでしょう。だからこそ、失われてしまうものもまたあります。歴史の専門家が文学の専門家だとは限りません。文学の専門家が神話の専門家だとは限りません。さらにはひとえに文学といっても、二〇世紀ロシア文学と、現代の日本文学を取り巻く感性や環境には拭い難い差があります。『ミノタウロス』をロシア文学の専門家が語っても、ロシア文学の専門家であるがゆえに、落ちる部分が生まれてくる可能性は常にあります。
 それゆえ私のように、アカデミックな環境に属していない批評家の強みは、専門の重みを、良い意味で在野(生活者)の野蛮さで乗り越えてしまえるところであり、『ミノタウロス』という大作へ向き合うためには、成功しているかはともかく、そうした良い意味での蛮性を発揮することが求められているのではないかと判断した次第です。小説は、単なる空の箱ではないので、生活者としての視点を差し入れることが不可欠なのです。逆を言えば、だからこそ、文学は不当に軽んじられてきました。
 ある人が言っていましたが、本当に心ある経営者を育てたいのであれば、むしろロシア文学を学ばせたほうがよいのではないか、とすら私は考えています。

psgaba氏との対話


 続いて、同じくGhost Sound(Twitter)ですが、やや時間帯を空けてGhost Sound(Twitter)上で@psgaba氏が5/28の4:00頃につぶやかれた文句が、かなり深いところにまで突っ込んだものありました。
 時期を逸してしまい、Togetterでうまく把捉できないので、そのやりとりを整理し、ここにまとめさせていただきます。
 Twitterのツィートという性質上生まれた投稿時間などの余分な情報は、読みやすくするために省いてあります。
 また、@psgaba氏が敬語を使っていないのは、当初は岡和田が応答をしかけるとは予想もされていなかったようです。
 突如絡まれてしまった@psgaba氏には諦めて下さいとしか申し上げられませんが、私としては、同氏とのやりとりは非常に啓発的なものでした。
 このレベルのやりとりができるのであれば、解説を書いた甲斐があるというものです。


 なお、psgaba氏の言葉の多くが「である」調で、私が「ですます」調なのは、もともと氏が対話ではなくツィートという形で話しておられ、そのツィートに対してしばらくのタイムラグを空けてから私がまとめて応答をしているという形式のためです。あらかじめご了承下さい。

psgaba氏:佐藤亜紀ミノタウロス』文庫版、岡和田晃さんの解説が評判通りの力作。冒頭の語りに着目しているのは慧眼だと思う。


岡和田:ありがとうございます。


psgaba氏:冒頭の土地を手に入れるくだりでは、人名が一切使われず、人称代名詞で済まされている。これによって人物たちはどこか厚みを欠いた影絵のような存在になってはいないだろうか。


岡和田:色彩のトーンにもある程度、変化はあったと思います。


psgaba氏:親しくもない人間が大農場をただで(正確には子供払いだが)譲ってくれるという荒唐無稽な出来事には、現実感の希薄な語りが要求されるのだと思う。あえて語りの情報度を下げているというか。『小説のストラテジー』のディエゲーシースの章と併せて読んでみたくなった。


岡和田:そのような考え方もできますが、ここはドストエフスキー(例えば『悪霊』)の本歌取りという側面もあったという気がしています。


psgaba氏:支配の固定化=時間の停止という構図には全面的に賛成するが、キエフ以後も回想だと思う。イワンに言及しているところを読むだけでも、そう判断できる。


岡和田:ここは迷ったのですが、私は一次大戦の勃発によって変化を強要された「語り」の周囲に生じる、文脈の断絶を契機としました。だからキエフを転換点にしています。判断の根拠は『バルタザールの遍歴』の「いくらも経たぬうちに戦争が始まった」のという箇所です。


psgaba氏:時間が動き出すのは第二章、顔を負傷した兄――いやでも牛頭人身の怪物を連想せざるを得ない――が帰還してから、ヴァシリの人生で戦争が明確な姿を現してからだと思う。第一章では、ヴァシリにとって戦争はまだ他人事だった。


岡和田:それもあると思います。出発点を「家」に置けばそうなるでしょう。ただ、私は読解にあたり、なるべく時代背景に重きを置きたかったのです。


psgaba氏:ヴァシリが信頼できる語り手という考えは面白かったが、賛成はできない。マリーナに関しては、テチヤーナの言うとおり嘘つきなのだ。


岡和田:これはわざと逆説を弄しております。嘘つきというか、哀しいまでにヴァシリは知識人なんです。いや、ほんとヴァレリーの『テスト氏』みたい。あるいはホフマンスタールの『チャンドス卿の手紙』。


psgaba氏:マリーナと始めて会った時の「気に入らなかった」の連打なぞは、もう、語るに落ちたとでも言うしかない。ただ知能は高くてもけだものという認識は正しいと思うし、そのような自己認識が可能なのだから概してクレバーな語り手ではあると思う。


岡和田:ここは同意なんですが、それもたぶん18〜19世紀小説の常套句なのではないかと思います。私はバルザックや、サッカレーの『バリー・リンドン』の後半部を思い出しました。ただ、現代文学において、語り手はむしろ信頼できないのが基本なんです。みんな、それを前提で読んでいる。文学に限りません。たぶんネットの文章を読むときも、半分くらい相手を値踏みしながら読んでいるのではないでしょうか。そうした状況において、信頼できる位相とはどういうものかを考えた、ということなんです。


psgaba氏「信用できない語り手」という用語を出している時点で、岡和田さんがそのような視点からの読みも検討したとは思っていましたので、わざと逆説も納得です。できれば解説で「信頼できる位相」にまで踏み込んで欲しかったです。


psgaba氏:岡和田さんに示していただいたヒントにそって、また再読してみます。ご教示ありがとうございました!


余談・岡和田:応答しているうちに、『バルタザールの遍歴』のどこがドイツ・ロマン派なのか考えていたが、ひとつ仮説を思いついた。10年も前に読んだのですっかり忘れていたが、フケーの『ウンディーネ』にベルタルダという人が出てきた。 これかも(たぶん違う)

『騎兵隊』、『白衛軍』への感想

 また、最後になりましたが、id:wtnbtさんが、バーベリの『騎兵隊』と、ブルガーコフの『白衛軍』の感想を書いて下さったので、併せて貼っておきます。
 どうぞ、ご参考になさって下さい。


・『騎兵隊』
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20100603
・『白衛軍』
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20100604

世界の文学〈第28〉ゴーリキイ,バーベリ (1966年)どん底・幼年時代・他短篇・騎兵隊

世界の文学〈第28〉ゴーリキイ,バーベリ (1966年)どん底・幼年時代・他短篇・騎兵隊

白衛軍

白衛軍