ガブリエル・ガルシア=マルケス『戒厳令下チリ潜入記』を再読する。


 とかく、奇妙な色合いのルポルタージュだ。

 凄まじい邦題から背を向けて原題に立ち返ると、『チリに潜入したミゲル・リティンの冒険』とある。

 つまりは、芸術家肌だと思われるミゲル・リティンという映画監督が、ビザを偽造し姿を変え、追放された祖国チリに立ち戻り、ピノチェト独裁政権の実態を赤裸々に暴き立てるための記録映画を創り出す過程を、リティン自身のインタビューをもとにしてガルシア=マルケスが再構成したものなのだが、この「ガルシア=マルケスによる再構成」というのが曲者である。

 こともあろうにガルシア=マルケスは、インタビューを纏め上げる際に、ミゲル=リティンによる一人称、というスタイルを採用するのだ。

 一人称ですよ、一人称。「プロジェクトX」みたいです、先生! お願いですから勘弁してください!
 しかし、実のところ一人称は、案外巧く機能してしまうのである。私見では、ガルシア=マルケスの本領は凝った構成にあって、『百年の孤独』でも『族長の秋』にしても、ジャーナリスティックな匂いのする文体をバロック的なまでに過度な装飾によって覆い隠すことで、独特の色合いを醸し出させるところにあり、そこに魅力の大分があるように考えていたのだが、それではいったい、小説に比べると圧倒的に素朴なスタイルであるところの、ルポルタージュではどうなるのか?

 心配は杞憂であった。

 とかくガルシア=マルケスの眼は辛辣で、リティンの芸術化肌と言えば聞こえはいいがある意味で奔放かつ身勝手な気質をうまく捉え、それを隠さない。もっとも、描き出す筆致はやわらかなので、リティンの「冒険談」を期待する読者にはうまくそのような蔭の部分が目に入らない仕掛けになっている。老獪だ。

 特異なスタイルのほかにも、見所は沢山ある。

 まず、80年代半ば(リティンがチリに潜入したのが85年)のラテンアメリカ軍事政権下の社会がどのようなものであったのか、という情報が、追放者リティンの眼を通じて説明される。つまりはディストピアへの観光ガイドとして楽しめる。

 綿密なようでいて肝心のところは行き当たりばったりで運任せなチリ国内への潜入体験そのものについても、親切に解説がなされるから安心だ。

 実の母親にも見分けがつかなかったほど完璧だった変装をどう行ったのか。

 国家警備隊員たちを欺いてどうやって首都内での撮影を行うのか。追放されているうちにコトバの用法が変わったことに、どう適応するのか(変わったのは「ヒゲを剃る」という言い回し))。

 案外バレないものだとわかると、途端に羽根を伸ばして映画の創りにこだわりはじめる映画人としてのリティンの無邪気さに、読んでいる私は思わず頬を緩ませ、そして、迫り来る警察の包囲を摺り抜けてレジスタンスたちと接触するまでの圧倒的なスリルに共鳴する。

 このように、総合的に考えてみても、新書サイズのノンフィクション(?)としてはなかなかに楽しめた内容なのであった。


 なお、ついでのようで恐縮だが、cafe-lafaloさんに教えていただき、ミゲル・リティンが撮った映画版『戒厳令下チリ潜入記』http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=4151
も観てみた。

 こちらは、ガルシア=マルケスルポルタージュとは別の観点から楽しめる点が多い。

 まず、あくまで「物語」的である書籍版に比べ、リティンの映画は完全にアジテーションを意図した内容だったりするのである。

 つまりは、「アジェンデ政権こそが正統であり、人々は立ち上がって簒奪者ピノチェトを弾劾しなくてはならない!」というメッセージ、これ一点張りの内容なのだ。

 ピノチェトの非道さとアジェンデの素晴らしさが、代わる代わる、「これでもか」というほど繰り返されるのである。あまりにもはっきりと明示された善悪二元論。革命的イデオローグの情念が剥き出しになっている。
 
 だが不思議なことに、こうした愚直なまでに吐き出されたイデオロギーが満ちているにもかかわらず、リティンの映像はどこか清冽な眼差しを失わない。
 それはおそらく、リティンが捉えたチリの風景が、見る側の感情の原初的な部分に、極めてダイレクトに働きかけてくるところがあるからだ。

 そして、自然と対比するような形で映し出される、チリの人々の貧しい生活。戦後間もない日本に建てられていたようなバラックが密集し、ピノチェト軍事政権への乾いた怨嗟を囁く人々の姿は、えもいわれぬ寂寥感を見る側に植え付ける。

 ドキュメンタリーとしては極めて稚拙かつ退屈なつくりでありながら、まるで19世紀ロシアの革命家ロープシンが書いた『蒼ざめた馬』という小説のように、静かに何かが響いてくるのだ。
 しかし、なぜだかわからないが、その残響が、このご時勢においてはとてもアイロニカルで空しいものであるということも、見る側は痛感させられてしまうのである。そして同時に、この映画をレビューするという行為そのものが、リティンの映画に共鳴してしまうような要素を、ありもしない場所から引き摺り出そうとするような、極めて愚劣かつ身のほど知らずな行いであるのではないか、という疑念を私に引き起こさせてしまう。

 私は無理に、この映画を褒めようとしてしまっているのではないだろうか? こうした疑問がどうしても付き纏ってしまう。