紺野あきちか『フィニイ128のひみつ』

 


 ライブ・ロールプレイングゲームと、カート・ヴォネガット『猫のゆりかご』を組み合わせた問題作。

 Amazonをはじめとしたネット上の書評でさんざん叩かれている作品。
 難解だとして売り上げも振るわず、「早川SF-Jコレクションの鬼門」と言われているらしい。
 「文藝新人賞とか取りそうな作品」とか貶し気味に言われてもいるらしい。
 だが、荒削りな部分こそあれ、鬼門とか言わせておくのはもったいない話だ。


 これでもか、というほどに象徴的なモティーフが散りばめられている小説である。
 だが、それらを推理小説的に読み解き、「正解」に向かって論理の筋道を立てていくのが主眼となってはいない。
 それよりも、象徴要素の親和性を感性的に理解し繋ぎ合わせていくことで、ある種の茫漠した構造のようなものを浮かび上がらせる、というところに物語の意図があるように思われる。


 もっとも、その象徴的な要素の種別(質)は、至極わかりやすいもので、作者がインタビューで言っているような具合の、ゲーム/現実、ジョック/ナード、そして何よりアメリカ/日本というような、とどのつまりは大きく単純な二項対立に還元してしまっても、さして問題は生じないだろう。

 ちなみにこちらには真摯な読者により、思わせぶりな箇所がリストアップされているが、じっくりこれらを観てみても、おそらく大したものは出てこない。
 推理小説のように、答えが用意されているわけではないので。


 話は象徴へと戻るが、明確な二分法によって区分された象徴性の海の中で、主人公である「わたし」は右往左往することを強いられている。
 が、特筆すべきは、主人公が動いているというよりも、むしろ主人公の背景である「世界」そのものが「わたし」の立ち位置を決めているようなところがあることだ。


 例えば、初期コンピュータゲームの傑作である『ウィザードリィ』の舞台である3Dの迷路空間では、前進のキーを押しても主人公たちが「前に進んだ」という状況は示されず、ディスプレイに映し出される「フレーム」内のヴィジュアルが変化した、という客観的な事実によってしか、「前に進んだ」ということをプレイヤー=読者は、理解できない仕組みになっている。
 あえて断言すれば、これと同じような枠組み(すなわち、視点の遠近法の活用)で読み解かれることを、『フィニイ128のひみつ』は自ずから要求しているのだ。

 
 だが、この小説は『ウィザードリィ』とは異なり、ややこしいことに、語られざる領域として存在する「世界」は、いわゆるコンピュータの電子回路に組み込まれた架空世界ではなく、あくまでナマの現実世界と地続きの場所になる。


 ライブ・ロールプレイングゲームにおいて、現実世界における「土地」の呪縛を取り去って、演出過多な虚構世界を作り上げるのは、ひとえに参加者のアナログな想像力と、「ここは〜の国です」という言葉の力によってのみである。
 だから作り出される世界は、「これは虚構ではない」と必死で念じなければ成立しえないような、一歩引いてみれば結局は学芸会的な幼稚さに満ち満ちたものとなってしまうのであるが、ここに、この小説のキモがある。
 なぜならば、先の例でいえば「フレーム」として存在する「世界」そのものにもまた、同様の仕掛けが施されているからだ。


 つまり、ライブ・ロールプレイングゲームの虚構性を剥奪している「世界」もまたライブ・ロールプレイングゲームの文法によって異化された形でしか読み手の前に姿を現わしていないのと同じように、時折差し挟まれる「現実」的な要素はライブ・ロールプレイングゲームの「世界」と同様に、ジャンク化の憂き目に遭ってしまう、というわけなのである。
 その意味で、作品内ではリアルとフィクションの位置が転倒している。
 

 そして、それ自体で完結しているコンピュータの世界とは異なり、ライブ・ロールプレイングゲームの世界では、プレイヤーは「世界」を実際に、自分自身の脚で歩き、情報を集め、動きまくって目的を果たすことが要求される。いわばフィジカルなものとして「世界」を体験することが重視されるのだ。
 だが、こうして身体性の問題が俎上に上ってきた際、語り手による、「意識」は、物語内におけるどのような位相に存在しうるのか? という新たな謎が発生してきてしまう。


 しかし語り手は周到で、その点の予防線はきちんと張られている。


 語り手は、実は亡霊だったのだ。
 つまりはシャマランの映画『シックス・センス』と同じことですね。
 でも、無名の複数性が亡霊として大きな物語を語るわけではないところが、長所でもあり短所でもある。
 そして、そのことがこの話の「文藝新人賞っぽさ」というしかないある種の独りよがりな感覚とも言うべきものを裏書きしているのもまた事実であろう。
 

 序盤、断章の08と銘打たれた部分において、「わたし」が遭遇する飛行機事故が説明され、乗客の「死亡リスト」に主人公の名前が記載されていることが説明される。ここで主人公の意識は、いわゆる神の視点において宙吊りにされ、主人公の「身体性」もまた異化の対象となる。

 
 こうして、作品と読者、ゲームマスターとプレーヤー、という二項対立は撹乱され、同時に語り手の意識と身体的がどこにあるのかも曖昧にされるというわけだ。
 ゆえにこれらの両次元を含有した視座にて「立体的」に物語を体験していくことこそが、『フィニィ128のひみつ』を読む際には求められるのであろう。


 『フィニイ128のひみつ』において、遠近法は二重化されている。
 まずはその点を押さえて、テクストに向き合う必要があるだろう。


 この遠近法の二重化という側面においてこの小説は、それ自体が徹底的に脱構築的な性格を有している。
 それゆえに同じゲームを題材にしたメタフィクションでも、筒井康隆朝のガスパール』や、ジュエル・ローゼンバーグ『眠れる竜』あたりと正反対なものを志向している。


 ゲームという媒体でしか検証することの不可能な、構造主義マジック・リアリズムのハイブリッドがここにある。リアリズムのあり方を考える上で、先端をゆくテクストの1つであろう。