笙野頼子『てんたまおや知らズどっぺるげんげる』


 夕刊や週刊誌に載っている文化人のコラムは大抵、無難で嘘臭く、マスコミ言語の通りよさとは、こういうことを言うのだな、と思わせられてしまう。
 が、この大塚英志との「純文学論争」ただなかの笙野の身辺雑記風小説は、一見、伝統的な私小説を装いつつも、マスコミ的な言語、決して読み手の世界観を異化することのない通りのよい言語に対する違和を、さながらP.K.ディック『ヴァリス』にでも出てきそうなオルタナ・エゴを持ち出すことによって、作品全体を多声的な構造に仕立て上げることに、半ば瓦解しつつも成功している。
 オルタナ・エゴは、フィクション内の作家「沢木千本」や、どっぺるげんげる(ドッペルゲンガー)という形を取るが、こうした無数のオルタナ・エゴが発する声をあえて受け止めることが、作家の強さを形作っているのだな、と思った。
 ラスト、夢に芥川が出てくるシーンも、気負いがなくてカッコいい。
 ただ、こうしたマスコミ言語との闘争って、ようやく文芸誌等で形になってきた気がするな。その意味では、笙野は早かったのかもしれない(「早すぎた」などとは言わないよ)。