向井豊昭/麻田圭子『みづはなけれどふねはしる』


●単純な「読み」と、コードとしての私小説

 『早稲田文学』誌を母体として活躍してきた作家陣のコラボレート小説にして、なかなかの問題作。ただし、麻田氏の小説に触れたのは、今回が初めてだったりもする。ともあれ、ようやくこの本に対して、何か言葉を発すべきときが来たようだと思うので(寝かし終わったというわけ)、少し詳しく書いていくが、その前に、この本の「一般的な」(何て汚らわしい言葉!)評判について、あえて、あらかじめ触れておこう。
 向井豊昭氏曰く、この本の評判はさんざんだった模様で、ひどい話では、「これは小説じゃない」とかいう批評とも言えないような批評が投げかけられたという。そうかと言えば一方で、向井氏の読者は向井氏の個人氏を作品に読み取り、麻田氏の読者は麻田氏の私生活を読み取るという、単純極まりない咀嚼のされ方をされてしまったようだ。
 とかく、少しでも難解な書き物は「読者のことを考えていない」と容易に退けられてしまうこのご時世を、まこと象徴するような読まれ方である。

 別段、現代人の教養の欠落を嘆こうというわけではない。豊崎由美の『百年の誤読』や、最近出た『早稲田文学』の総集編を観てみればわかるが、文学作品をひどく単純なコードでのみ接し、そのコードで当て嵌まらないと観るや否や放り出し一瞥もくれない、というのは、今に始まったことではないからだ。そして、私小説的なコードでしか小説に触れることができない、というのは、それこそ明治のはじめ、坪内や二葉亭の時代から連綿と繋がってきた「読み」に関する病である。
 しかしながら、これほど、純文学以外の領域が隆盛を極め、当の純文学そのものもミニマリズムという名の閉塞したジャンル小説に出しきっている現代において、「私」が情報のなかに埋没せず、かえってテクストを読み解くうえで信頼を集めているのは、どうしてだろうか?


●「私」を語る「声」の変節

 インターネット上のブログを徘徊していると、至るところに「私」が姿を現している。これほど衒いなく「私」を表出することのできるメディアは、他にはない。かつて、「私とは何か?」という問題は、それこそシェイクスピアの昔から、文学の重大なテーマとなってきていた。ただし、その「私」を探求するという行為そのものは、絢爛豪華な文体であったり、プロットであったり、演出であったり、装置であったりによって覆い隠されてきた。そこでは、「私」のありかを求める「声」は、限りなく主題の背後に隠蔽されなければならなかった。
 「生きるべきか死ぬべきか……」と神経症めいたデンマークの王子が語る際、そこで問われているのは「生きるべきか死ぬべきか」などということではない。「生きるべきか死ぬべきか」に悩まざるをえない近代的な「主体」であるところの「私」が、悩んでいるという「声」そのものに焦点が当てられるように作られている。ただ、「声」の位置づけは、「生きるべきか死ぬべきか」という言葉の意味の彼方に隠されている。そもそも「声」は雑音に他ならず、直截「声」そのものに焦点を当てるのは、野暮ったい行為にほかならないからだ。
 ただし、インターネットの登場によって、事態が変わってきたように思える。World Wide Webのサーバーに乗せることのできる情報の容量は、まさに無限大である。情報の海の中で、「声」を響き渡らせるためには、「声」の中味は単純でなければならず、そして、ウェブ上では、同じように純化された「声」と、容易に混じり合うことが可能になる。こうした生のままの「声」のぶつかり合いは、奇妙な事態を生む。それはすなわち、他者の「声」を気にして自意識過剰に陥った、「声」そのもののねじれである。


●分裂症としての「声」

 「声」のねじれを表している症例として典型的なものが、前田司郎の『恋愛の解体と北区の滅亡』だ。この作品は、いわゆるフリーター小説を現代文学風に味付けして、『ゴドーを待ちながら』な展開にした作品で、それ自体はあまり好きではなかったが、抱えている問題意識そのものには、興味深いところがあった。つまり、一人称の語り手の「声」が奇妙な捩れ方をするのである。それは、いわゆるミハイル・バフチンが言うような「ポリフォニー」、つまりは多声的な構造を取っているということを意味はしない。反対である。あくまで声は一本しかなく、その声が、自意識過剰に陥り、分裂症的に陥るのである。そのせいか、ベケット作品を例に出せば、一見この小説は『ゴドー』と見せかけ、結果的に『モロイ』を裏書きしたものとなっているのだ。
 おそらくこれは、作者の問題視しているだろう空無感が、ウェブ社会の抱えているそれと、パラレルであるということを意味している。それゆえに『恋愛の解体と北区の滅亡』は非常に現代的な感性をトレースしている。


●コラボレートと、「声」どうしの距離

 さて、おそらく『みづはなけれどふねはしる』は、前田司郎と同じような読まれ方をされてしまっているのだろう。実際には、『みづはなけれどふねはしる』と『恋愛の解体と北区の滅亡』の書かれ方は完全に異なる。そのことは、『みづはなけれどふねはしる』の最初の章、『樹の花』と題された章を参照してみれば、このうえなく明らかだ。
 この章は、ジョン・レノンオノ・ヨーコのコラボレートが出てくる。確か、二人のコラボと言うと、あの『Plastic Ono Band』だっけ? 裸のジャケットで二人が映っているヤツ? ああいったものを想起しがちだが、もちろん、ジョン&ヨーコの素朴でナイーヴな共同作業に対する、憧憬とアンヴィバレントな想いが同居した意味での「創作宣言」がなされている。この「創作宣言」は全体を読み解いていくうえで大変重要だ。
 例えば、本書でもっとも分量が長く、おそらくは傑作と言って過言ではない『ブレイク、ブレイク、ブレイク』には、向井氏の祖父とおぼしき人物が登場する。この祖父の声は、突然現れたのではなくて、その前に収録された作品群(特に『桜の下から大空になります』)によって、あらかじめ予告され、そのうえで徐々に距離が詰められてきたのである。こうした距離の取り方というのは、どうしても個人ではやりづらいところがある。
 一見、『ブレイク、ブレイク、ブレイク』には、バイロン卿やトマス・グレイなど、従来、向井氏を語るうえでは出てこなかったキーワードに、麻田氏の翳を読み取りたくはなるのだが、何回か全体を通読するうちに、コラボレート小説の意図したところは、小説内での「声」を多層的に仕向けたうえで、「声」同士がなるべく、適切な距離をもって共存するような工夫を凝らそうとするところにあったのではないか、と思えてもくるようになった。
 そこでは、おそらく、ネット的なヴァーチャル空間とはまた違った意味での、共生のあり方、共同体の方法が(ヴィジョンとして)模索されているのではないかと思う。だって、ヴィジョンを希求しなければ、『ブレイク、ブレイク、ブレイク』(=破壊、ウィリアム・ブレイクの幻視)などというタイトルは出てこないだろう。
 そうして、こうした共同体は、おそらく、ネット社会が無機質に捨象してきた、ある種の部分を継承しようともしている。その部分が何かということを考えるにあたっては、文中で引用されるウィリアム・バトラー・イェイツの詩句を記しておくのがよいだろう。「声」同士の緩衝材としては、個人的には、トマス・グレイの持つ墓端派なイメージよりも、ケルトの薄明の方が座りが良い。

 Before me floats an image, man or shade.
Shade more than man, more image than shade;
For Hades' hobbin bound in mummy-cloth
May unwind the winding path;
A mouth has no moisture and no breath
Bleathless mouths may summon;
I hail the superhuman;
I call the death-in-life and life-in-death.

 

●「声」の絡まり方?

 さて、前の章で書いたような先鋭的な試みが見られる『みづはなけれどふねはしる』だが、仮にいままで書いたようなコラボレートが「横糸」としたら、「縦糸」はどうなのだろうか、という疑問が湧き上がってくる。
 向井氏の祖父とおぼしき人物の一代記的な側面もないわけではないこの作品について、「例えば『BARABARA』の最後にも、早稲田大学に行っていたおじいさん出てきたよな……」と考えていくことも不可能ではない気もする。
 ただ、こうした縦糸と横糸の関係を考えていくうえで、『みづはなけれどふねはしる』の情報の緩さがネックになってくる。「声」と「声」との絡まり方が、見えたと思った瞬間、雲散霧消することが少なくないのだ。
 もちろん、これは私の読解力の不足に起因するところも大きいだろう。ただし、それゆえに、例えばヴィンフリート・ゲオルグゼーバルトが『アウステルリッツ』で行なったような、単一のテクストのなか、うねるような語りのうちに「声」を巻き込むという試みに対し、向井氏/麻田氏はどう考えておられるのか、いちど伺ってみたい気もする。
 ちなみにゼーバルトのテクストは、意図的に「声」の間の緩みを廃しており、それゆえ、『みづはなけれどふねはしる』とは性質が異なるものの、「声」について考えるうえでは、非常に役に立つだろう。


アウステルリッツ

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