ケネス・ブラナーの『魔笛』を観る。


 ケネス・ブラナーの『魔笛』を観てくる。かつて、ブラナーが撮った『ハムレット』を何度も何度も見直していたもので。場所は、銀座シネシャンテ。顧客の年齢層が高く、落ち着いた雰囲気。そして、肝心の映画については大満足。噂には聞いていたのだけれども、ここまでやってくれているとは。オペラの曲も台詞もそっくりそのまま(英訳になってるけど)、なぜか舞台を第一次世界大戦にしてしまいました、ってな代物だったが、これが恐ろしく嵌っていたのですよ。いきなり塹壕戦ですよ。タミーノは毒ガスで昏倒し、パパゲーノは小鳥をもって毒ガス探知。夜の女王はMk.1戦車で突撃し、モノスタートスはなんちゃって黒人。ザラストロは陣中、傷病兵を集めて怪しい結社めいたことをやっているのである。
 もともと『魔笛』は音楽としては美しいが、この音楽に付随するストーリーは非常に不吉なものであるように感じていた。よく指摘されるように、善悪の立場が物語の途中で入れ替わるからでは無論ない。脚本を書いたシカネーダーが大衆劇の作家だったのでやっつけ仕事をしたとか、フリーメースンの教義が押し込められているとか、そういった話とも違うのだ(かつて、国書刊行会の『ドイツ・ロマン派全集』に首っ引きになっていた身にとっては、物語内[とりわけタミーノの「転向」]あたりの象徴性のシフトの仕方には、興味深いものがあるのだが)。
 モーツァルトの、狂騒と平穏がめまぐるしく入れ替わるメロディに合わせて、物語の、いわゆるメースン的とされる部分(「試練」とか)がことごとく一次大戦のコードに置き換えられると、一次大戦が象徴していた「理想と現実(のギャップ)」が、人生のそれと重ね合わせになる。それゆえ、この映画を観るまでいささか唐突だと思っていたパパゲーノが首をくくろうとする場面などに、確固たる説得力が生まれてくる。そして、同時に、結末部(荒廃した戦場が一気に緑へと変わるところとか)が「悪い冗談」としか思えなくなる。こうした「悪い冗談」を目にすると、『魔笛』が描こうとしているものは、イデオロギー闘争などでは全然なくて、結局、(傍から見ていると時折、笑えてくるような)イデオロギーに揺り動かされ生き急ぐ人間の姿そのものではないかと思えてくるのだ。
 とりわけ、全体を通してあまりにトリックスター的な扱いをされる「夜の女王」の姿を見ると、やはり『魔笛』は「悪い冗談」なのだな、と思えてならない。アリアが最高潮に達した部分では、口元にカメラがズームインして狂おしく歌い続けるさまが強調され、第2部で物語の流れがザラストロの方に傾くと、ずり落ちまいと必死でザラストロの砦の外壁を登ってくる。変革期にあるがゆえに生き急ぎ、一瞬たりとも停滞しないのが「夜の女王」のレゾン・デートルなのであろう。
 ケルト神話には「戦争の女神」がたくさん(3副対の女神が4-6人くらい)おり、彼女らは一概に尻軽で、喧嘩っ早く、いざ戦闘となると、敵兵にこの世ならぬ恐怖を与え、100人単位で殺戮していく。ケルトとは直接関係はないだろうけど(「夜の女王」はイシス伝説らしいので)、「戦争の女神」に顕著な生き急ぐ姿が、「夜の女王」の造形をはじめ、『魔笛』のいたるところに(それこそあからさまに)表象されているのは間違いないだろう。
 そうした、いわば剥き出しになった人間性が、このうえなく美しい音楽と〈同時に〉観客の目の前に突きつけられること。そこのところに、『魔笛』の面白さがあるのではなかろうか。

 あと、結局、夜の女王とザラストロは、結局どちらが連合軍で、どちらが枢軸軍なのでしょうか? 西部戦線なのは確かなようだが、詳細は関係ないのか? それとも、内ゲバ? まさかね。


・「魔笛
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