『バベル』についてのノート


 ようやくDVDで観た。偶然放たれた一発の銃弾が連鎖的に、モロッコ・北アメリカ・南アメリカ・極東の日本に激震をもたらし、アメリカを中心とした国際社会のバランス・オヴ・パワーを揺さぶる大事件へと発展しそうになる。
 観ているときは食い入るように惹き込まれ、(とかく、刺激的だと問題視されたクラブのシーンも含めて)演出や構成も見事だと思ったが、しばらく経過して頭のなかで反芻してみると、どうも過剰に「思想」的、過剰に「文学」的構成を意識しすぎているように思えてきてきて仕方がない。
 そして、「思想」的、「文学」的たらんと試みているがゆえに、逆説的に、登場人物やメッセージが記号化しているように見えてくる。


 10年くらい前に、アメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』が流行ったらしい。各々の文化圏ごとにアバウトな「勢力図」を作り上げ、それらを闘わせることでバトルロイヤルな(念のため付言するが、『バトルロワイヤル』とは違う)構図を描き出したことで知られる著作だが、銃弾を核にした各文化圏の描き方が、どうもいささかハンチントン的な戯画化を免れていないように見えてきて仕方がないのだ。とりわけ、菊地凛子演じるチエコのびっくりな扱い(特に、脱ぎっぷり)を観ると、特にそう思わざるをえない。


 もちろん、映画というのは難しいメディアで、再現される舞台を一点に絞り、そこにスペクタクルを持たせることは可能であっても、複数の文化圏を同時並行的に描き出すのは、困難であるように思える(制作費の問題もあるし、上映時間の問題、受け手が混乱するなどの問題もある)。そうした事情や過去の例を鑑みると、『バベル』はあえて困難な道を選んだというわけで、そのぶん意欲的な試みであったとは言うことができる。


 しかし、実際、この映画を観ると嫌が応にも連想させられる2001年の9月に起きた〈あの事件〉は、たぶん、モロッコの少年が腕試しに放った一発の銃弾なんかではなく、より深い次元で引き起こされたというものと言うべきだろう。
 私は、とりわけ〈あの事件〉以降の思想史的な状況は、いわゆる「哲学・思想」的な概念に落として語られるよりも、より歴史的な視座、とりわけアナール学派の歴史家フェルナン・ブローデルが語る「長期持続」の観点から語られるべきだと考えている。〈あの事件〉は真空に突如発生したわけではなく、長きに渡る抑圧と怨恨の持続の結果、溜まった膿みが噴出してしまったものではないか。そう思えてならないからだ。


 だから、菊地凛子の終盤の安易な脱ぎっぷりは、現代における「日本」の立ち居地を、過度に記号化されているようで不満が残るし(序盤のスカートをめくって股を開くシーンはけっこう衝撃的で、よいと思うが)、菊地の髪型(最近読んだジョン・バンヴィルの『海へ帰る日』では、こうした髪型は「自慰に耽っている奴」の証だと揶揄されていた)や女子高生という背景設定もコテコテに過ぎると思えて仕方がない。


 ただし、菊地は菊地で、そうした過剰に記号化された役割を「わかっていて」背負っているところがあり、脚本によって与えられたとおぼしき役割を突き抜けているように見えるので、そこは素直に評価したい。


歴史入門

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