アレクサンドル・ソルジェニーツィン逝去


 今年は本当に訃報の多い年で、ついにアレクサンドル・ソルジェニーツィンも亡くなってしまいました。
 『イワン・デニーソヴィッチの一日』は私が文学に開眼する契機となった思い入れのある作品です。
 最近も折に触れ、『収容所群島』を何度となく読み返しておりました。

収容所群島(1) 1918-1956 文学的考察

収容所群島(1) 1918-1956 文学的考察

 近年、チェチェン問題に対して苦言を呈しながらも、ソルジェニーツィンプーチン政権を容認し始めたというのは残念な話でしたが、いずれにせよ『収容所群島』が傑作であるということは変わりません。


 訃報については、既に各メディアにて報道も出ているようです。


・朝日
http://www.asahi.com/international/update/0804/TKY200808040036.html?ref=rss


・CNN (追記:削除されている模様)
http://www.cnn.co.jp/world/CNN200808040003.htm


・共同
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/europe/166609


NHK
http://www3.nhk.or.jp/news/t10013313571000.html


・時事
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2008080400024


・読売
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20080804-OYT1T00180.htm


・毎日
http://mainichi.jp/enta/art/news/20080804k0000e040019000c.html


 しかし、毎日新聞の報道にある「国外追放から20年後にロシアに戻った時、旧体制は崩壊して彼の役割は既に終えていた」という部分には、非常な違和感を覚えます。
 文学は新聞報道ではないので、ある時代の様相を克明に描き、時代精神を的確に捉えていたからといって、それが優れたものであるならば、時代が変われどすぐさま無効を宣告されるような性質のものではありません。そして、ソルジェニーツィンの作品のような、「ラーゲリ」と無関係に語ることの適わないものでも、事態は同じであると私は考えています。
 以前ものした「生政治と破滅(カタストロフィー)」という論考にて私は、『収容所群島』をこそ「いま、ここ」を描いたものとして読むべきだ、と主張しました。
 そのスタンスは依然として変わっていません。このようなとき、同稿がいまだ活字として陽の目を見ていないのは、極めて歯がゆく思います。
 ただ、ブログにおいても、過去、向井豊昭作品について書いた際に、切り口を変えながらも相通じることを書いているので、関心のある方はどうぞご覧下さい。


 いずれにせよ、特定の時代、特定の世代、特定のマイノリティを語っているように見える小説でも、全体に浮かび上がってくる〈像〉を見ると、形式としてより普遍性を有していると考えられるものが、いまだ数多く存在するのは紛れもない事実です。
 過去の作品を読み直すにあたっては、「特定のもの」として書かれている要素を排除するのではなく、それをあえて「自分に関係するもの」だと身に引き付けて読むような読み方こそが、必要になるのではないかと思います。


 もっとも、私は沼野充義氏の著作や訳書、雑誌記事をいくつも読んでおりますし、講演も聴いたことがあります。
 その限りにおいては、沼野氏はかような乱暴な発言をする人物ではないと、私は確信しているので、遺憾ながら、これは聞き手側の要約がいまひとつ繊細さ・丁寧さを欠いていたのではないか、あるいは文学的・歴史的な認識が甘かったのではないか、と思えてならない次第です。