巽孝之さんと立花眞奈美さんが主宰する伝説のSF誌〈科学魔界〉の記念すべき50号が刊行されている模様です。今年のSF大会、DAICON7でも頒布されたとのことでした。
この雑誌がどれだけ伝説的なものかということは、飛浩隆さんのブログに詳しく記載されています(この解説そのものは48号に対してのものですが)。
その〈科学魔界〉に、拙稿「文学の特異点――ポストヒューマニズムの前史のために」をご掲載いただきました。
400字詰め原稿用紙換算でおよそ120枚の長編文芸評論なのですが、過大なご評価をいただいた結果、まるまるご掲載いただきました。なんか僕がいていいのかしらん、な感じが拭えませんが(汗)、ありがとうございました!
以下の【内容】を見ていただければわかる通り、僕以外が超絶豪華な号なので、ご興味のある方はぜひ手にとってみてください。
【内容】
・巻頭座談会「なぜぼくたちはファンジンを作ったのか」難波弘之、関口芳明、波津博明、巽孝之+菊池誠、小谷真理
・「五十号によせて」荒巻義雄、大宮信光、柴野拓美、飛浩隆、ひかわ玲子、山野浩一、夢枕獏
・特別エッセイ「わたしとSFの出会い」伊藤計劃、円城塔、藤田直哉
・評論「マゴニアの受難劇」磯部剛喜、「文学の特異点」岡和田晃
・NIPPON2007特集「For Locus」「日本滞在記」リサ・フライタグ、「ワールドコン プチ体験記」吉田仁子
頒価1000円、送料100円。
ご関心のある向きは、どうぞ
manami-t★p04.itscom.net
にまでご連絡を、とのことです(★→@)。
『SFマガジン』2008年10月号の「エトセトラ」欄にも購入方法が記されていますので、併せてご覧いただければ幸いです。
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2008/08/25
- メディア: 雑誌
- 購入: 1人 クリック: 10回
- この商品を含むブログ (15件) を見る
●「文学の特異点」の「ウリ」
自作の「ウリ」を簡単に解説させていただきますと、まず、かなり変わった評論であることは間違いないでしょう。それが第一の「ウリ」(笑)。
SF者に対しては、ブライアン・オールディスの問題作『世界Aの報告書』やロバート・J・ソウヤーの「ホームズ、最後の事件ふたたび」を真正面から長々と論じた(文庫の解説を除いた)ほぼ唯一の批評であると言えば、それで充分かもしれません。
- 作者: ブライアン・W.オールディス,大和田始
- 出版社/メーカー: サンリオ
- 発売日: 1984/05
- メディア: 文庫
- クリック: 1回
- この商品を含むブログ (3件) を見る
現代文学へ関心のある方に対しては、アラン・ロブ=グリエの『ニューヨーク革命計画』やトーマス・ベルンハルトの『消去』、あるいは笙野頼子の『レストレス・ドリーム』について、けっこうオリジナリティのある読みを示すことができたのではと自負しています。
- 作者: トーマス・ベルンハルト,池田信雄
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2004/02/05
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 46回
- この商品を含むブログ (30件) を見る
- 作者: トーマス・ベルンハルト,池田信雄
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2004/02/05
- メディア: 単行本
- クリック: 11回
- この商品を含むブログ (22件) を見る
- 作者: ゲイリーガイギャックス,多摩豊
- 出版社/メーカー: 社会思想社
- 発売日: 1989/10
- メディア: 文庫
- クリック: 10回
- この商品を含むブログ (11件) を見る
また、本稿はいわゆる「決断主義」ブームの到来前に書いたものではありますが、ドイツ観念論的な文脈から公法学者カール・シュミットの『政治神学』あるいは『パルチザンの理論』を辿り直すことで、とかく高度資本主義のほんの表層をなぞりうわついたものとなりがちな「決断」を巡る議論について、ひとつのオルタナティヴな「ものの見方」を提示することができているのではないかと、自分では思っています。
- 作者: カール・シュミット,田中浩,原田武雄
- 出版社/メーカー: 未来社
- 発売日: 1971
- メディア: 単行本
- 購入: 3人 クリック: 106回
- この商品を含むブログ (26件) を見る
「決断」についてWebで交わされている議論は、言説が軽薄で一面化する傾向、あるいは内容よりも発言力の大きな意見に取り込まれるという現状が否定できないものとなっているように思います。
「それまで批評が語りたがっている文脈には社会的意義がまったくなく、所詮は引きこもりの妄想でしかないので、逆に売り上げではメジャーな(時代精神を表象した)サブカルチャーこそを批評は対象とすべきだ」という無言の前提が背景にあるように思えます。そして、取り上げられる芸術作品は「芸術」ではなく等しく「サブカルチャー」として扱われることが多いようです。
それは、(例えば)「純文学」などという高踏的なレッテルに依拠した幻想を剥ぎ取ろうという動きよりも、個々の「芸術」に根付く深みを探ろうとする行為そのものを抹殺しようとしているように、僕の目には映ります。
レッテルの剥ぎ取りは、大いにやるべきでしょう。しかしながら、それは個々の作品の、内在的な価値、美的価値をきちんと引き出すことが前提でなければならないでは、と考えます。
だが現状はそうはなっておらず、「サブカルチャー」という言葉がある種の免罪符となり、「芸術」としての「趣味判断」は個々人の好みの問題と斬って捨てられ、代わりに特定の「思想」に基づいた「取捨選択」(あるいは選別作業)が称揚され、そしてその「取捨選択」は、支持者の母集団の多さ(のみを根拠にすること)によって、あたかも歴史的必然であるがごとく錯覚させられてしまっているのではないかと思います。
「趣味判断」を失った批評の行き着く先は、読み手に何も考えさせない煽動か、人生論的なお説教にほかならないことでしょう。
こうした状況に〈個〉としての立場から違和感を覚えている人は少なくないはずだと、僕は考えています。そして、そのような違和感を抱えた方々にこそ、ぜひとも本稿をお読みいただき、「こういうことを考えている人間もいるんだ」と知っていただくとともに、思考の一助としていただきたいと僕は望んでいるのです。
趣味性の強い論文というよりも、カント哲学を援用して「趣味判断」を抽象化し、それを美学理論に接続することで、ニューアカデミズムブーム崩壊後の、やや閉塞的な批評の流れをなんとか迂回して、「趣味判断」に依拠した「芸術」性と、大文字の社会との繋がりの恢復を志向できないかと考えました。
それゆえ僕にとっては、(例えば)SFもRPGも優れたものは「芸術」として美学の観点からもきちんと語られてしかるべきであり、それを実践することで、『絶叫師タコグルメ』を書いた際に笙野頼子が池田雄一を援用して言った「経験を遊離したメタレベルにひきこもる」「現代日本の病的心性」がいったい何を取りこぼしてきたのかを、歴史性を加味した批評的言説によって、改めて語り直せないかと考えたのです。
もちろん、拙いものではありますけれども、実験性の強い思考について寸分カットすることなく掲載をいただいた〈科学魔界〉に対しては、感謝の念が尽きません。そして、そうした思考を排除せず受け入れてくれるSF界という場において拙稿を提示することができたのは何よりもありがたく、また幸せなことであったと思います。
どうぞ、よろしくお願い申し上げます!