『顔の無い村』復刊

 『大江戸RPG アヤカシ』は、JGC2008に参加した際に速攻で購入し、情報を集めてきました。

大江戸RPG アヤカシ (ログインテーブルトークRPGシリーズ)

大江戸RPG アヤカシ (ログインテーブルトークRPGシリーズ)

そのサポートブログで知ったのですが、思緒雄二さんの傑作ゲームブック『顔の無い村』が、復刊するようです。  
 しかも、小林正親さんによる書き下ろしアナザー・エピソードも加わっています!


 ゲームブックとは、ご存知ない方もいらっしゃるかもしれませんが、ページや段落がばらばらになっている本。ユーザーは、提示される選択肢を自由に渡り歩きながら、本の提供する「ゲーム」を遊ぶという仕組みになっています。独自の文脈があり、とても面白いものです。
 しかしながら、同時にその文脈が、いささか過小評価されているきらいがあるのも事実でしょう。


 文学フリマで色々同人誌を買いましたが、ゲームについて語られた言説は、少数の例外を除けば、どうもいささかうわついた印象が拭えないものがありました。
 例えば、あるゲームで〈日本〉が題材になっていたとします。ところが、ゲーム文化における〈日本〉はあくまでもフェイクとしての〈日本〉でしかなく、深みが感じられないもの/意図的に深みを削ぎ落としているものが、ほとんどです。そして批評の言葉は、その深みがないところに、新しさを見ようとしています。90年代、そして2000年代前半に青春を過した身にはわかる話ではあるのですが、一方で少し物足りなく思えるのも事実です。


 「物語」と「ゲーム」との関係性を語る際に、いわゆるコンピュータゲームが普及する前に「物語」と「ゲーム」とを結びつける基礎となったゲームブックについての考察が、もっとなされてもよいと思うのです。


 もともと、20世紀文学にはある種のゲーム性があります。とりわけ、アラン・ロブ=グリエ『幻影都市のトポロジー』、トマス・ディッシュ『334』、大江健三郎同時代ゲーム』などに顕著ですね。
 その流れをもっとも早い時期に引き継いだのが『トンネルズ&トロールズ』のソロ・アドベンチャー。続いて、『ファイティング・ファンタジー』で、ゲームブックのブレイクがくるというわけです。


 ゲームブックについては、いずれどこかで長く書きたいものですが、簡単にまとめましょう。
 ゲームブックの多くは粗製乱造でした。が、なかには、「ゲーム」にしか不可能な、「神話」の解体と再構築を目指した達成もありました。『アルテウスの復讐』『ミノス王の迷宮』『冒険者の帰還』の〈ギリシア神話ゲームブック三部作〉、アーサー王伝説をモティーフとしたJ・H・ブレナンの『グレイルクエスト』(『ドラゴン・ファンタジー』シリーズなどがあります)。イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』がヒントになっている奥谷晴彦『魔城の迷宮』……。このあたり、語り始めると止まりません。


 そのなかでも白眉なのが、思緒雄二さんの作品でした。
 思緒さんは、もとは折口信夫を本格的に学ばれていた方。そして、それをゲームに活かすことに成功している稀少な方。
 うわっつらではない〈日本〉とゲームの幸福な結婚を、かつて『顔の無い村』の先に復刊した、『送り雛は瑠璃色の』を読んだときに感じたものでした。


 『顔の無い村』の復刊はまだ先のようですが、『送り雛は瑠璃色の』は、掛け値なしの傑作。ゲーム的な前提知識は必要なく、素直に楽しめるゲームブックです。数値管理が苦手な方も、お気軽にどうぞ。
 こういう優れた作品が、もっとメジャーになれば、と思わずにいられません。
 とりわけ、比較的簡単にコンピュータでコマンド選択式アドベンチャーゲーム(ノベルゲーム)を創ることが可能な昨今、あえて「本」という媒体にこだわり、無駄なくゲーム性を凝集させるゲームブックは、もっと見直されてもよいのではないかと思います。可能性のあるメディアでしょう。

送り雛は瑠璃色の

送り雛は瑠璃色の

 そういえば、「Role&Roll」誌に連載されている「魔法イメージ探訪記」、単行本にならないかなあ。
 え、思緒さんと関係があるかって? 雰囲気に、相通ずるものがあるじゃないですか(笑) 『クトゥルフ』の『黄昏の天使』も、もういちど、この時代に読みたいなあ。