笠井潔『例外社会』


 さる私淑する人が、「批評は疥癬である」と書いていたことがある。私もそれを認めるにやぶさかではない。というのも、日々生きているうえでどうにも生まれてくる違和感のようなもの、それをなるべく強度ある言葉で語ろうとするのが「批評」だと私は考えているからだ。それが疥癬ではなく、他の何でありえようか。


 こうした出発点に立つと、笠井潔の『例外社会』(朝日新聞出版)は、ここ数年の日本語で書かれた批評文のなかで群を抜いて素晴らしいものだった、と言うことができる。掻きむしり甲斐がある、掻いた後に何かが生まれそうな気がする、と言えばよいだろうか。
 細かな部分で違和感を覚えるところも少なくない(特に第六章)が、それを補って余りある、論の全体を包む強靱な体系化への意志に心打たれたのだ。1930年代と2000年代の相同牲を、執拗な思考の運動によって描ききっている。だからこそ「例外国家から例外社会へ」という社会システムの変動の過程をすんなりと理解することができる。
 『テロルの現象学』、『秘儀としての文学』、『探偵小説論』シリーズなど、私は笠井潔の強度ある批評を読み込むにつれ、一貫して観念批判と銘打ちつつも、観念を事実で乗り越えるなどといった愚かしい方法ではなく、それこそカント的な超越論的視座を導入することで、茫漠とした思想を一点において凝集し強度ある言説として概念化させながら、例えば柄谷行人がやってきたような思考によって状況を切り拓くよすがを模索するという姿勢を彼が崩していないということに気がつかされた。
 おそらく、笠井は状況ではなく〈知〉の力を信じているのだ。これは村上春樹が言うような、「壁」と「卵」があったら自分は必ず「卵」につく、といったやり方をさらに闘争的に推し進めているように見える。


 笠井の社会評論、あるいは文芸評論は、すべて〈知〉への信頼(それを信仰、と呼ぶのもご自由に)を背景とした概念のドラマとして理解することができる。こう開き直ってしまえば、例えば『テロルの現象学』を、「連合赤軍」という歴史的な事象をカットして読んでしまっても充分味読に堪えるということに気づかされる。
 団塊ジュニアよりもさらに下の世代に属する私は、団塊の世代とほとんど直接的な接点を持ち得なかったがゆえにか、どうしてもある一点において、過去の事象(自分が生まれる前の、あるいは物心つく前の出来事)に断絶を感じてしまうところがある。
 だがそれゆえに、笠井がポーリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』やドストエフスキー『悪霊』から取り出す観念批判の文脈を、歴史的な「連合赤軍」という虚焦点に「のみ」還元させることなく、より世界史的な視座を有した言説として受け止めることができる。


 歴史を理解するにあたり、観念を頼みとする形式(いわゆる「歴史哲学」)というものが、最も浅薄な形式だということは論を俟たない。現に、ヘーゲルの『歴史哲学講義』とか、ヘルダーの『人間性形成のための歴史哲学異説』などは最悪としか言いようがない。
 だが一方で、概念化の経緯を経なかったとしたならば議論そのものが成立しえず、暗に遠ざけられた結果、いずれは「歴史」や「人間」そのものが「なかったこと」にされてしまうのではないか。
 かような懸念が私の中には根付いている。
 「概念」を否定することで「歴史」や「人間」とを結びつける方法の一つを放棄してしまえば、それはむしろ私たちにとって不利な事態になるのではないか。
 社会は、そして文学は、日に日に素朴になりまさっている。「声のでかさ」か、(いわゆるネオリベ的に)離人症的な文脈へとすべてが回収されつつある。
 そうした状況下において、理論的に物事を語るためには、ある程度、繊細かつ執拗な概念系を構築し、解体し、さらに構築するという作業を反復するだけの強度ある概念群が必要とされているのではないか。私はそう考える。


 以上のような前提のもとに私は発売後すぐに『例外社会』を読んだ。雑誌連載時に読んだ部分もあったが、よりコンパクトにまとめられた感じだ。興趣を感じたところは、主に序章、第1章、第2章、第7章、第8章だ。
 多くの若者は第9章の「複岐する実存」と「生存のためのサンディカ」なる概念系の目新しさに惹かれるようだが、私は逆に、そうした結論に辿り着くまでの思考の運動の方に関心がある。


 序章から第2章は、主に1930年代の事象と現代とを結びつける、その豪腕に感服した。
 タイトルから連想される通り、『例外社会』の中心はカール・シュミットの理論であるが、シュミット的な位相はどうしても周辺の哲学者の文脈を抜きには語れない。
 ハイデガーとシュミットとベンヤミンアガンベンはどう違うかを捨象してしまうと、おそらく確実に時代を読み間違う。なぜならば、これらの思想家は二〇世紀的な大量死の時代において、言語化される以前のマグマのような時代精神の凝集性を粘り強く思考した最初の者たちだからだ。
 私には、人文系の文脈を読む力そのものが現在の状況においては衰えを見せているように思われる。ここまで回りくどく読みの在り方を限定しなければ、たぶんとんでもない誤読(単純化)を生んでしまうだろう。
 第7章については、「現代思想」の癖である1848年革命と1930年代の言説をきちんと整理し、千年王国主義と再帰的動物、そして9.11に繋げているところに興趣を感じた。
 第8章については、工学的思考の暴力性に対し、概念化のドラマが果敢に食い込んでいるところに興奮した。とりわけ「大審問官とアーキテクチャ」という背反する組み合わせは、日々工学的な装いを続ける世界において、自分の知的な圏域を確保しようという務めなければならない人間が直面する問題系に、それこそ概念化の立場から直接コミットすることに成功しており、情報環境について論じた書物の中では白眉だと言える。ただし、大審問官の「最後」について、もうひとつ踏み込んでほしかった、というのは高望みが過ぎるだろうか。


 概念群はツールのひとつでしかない。そこを見誤ってはいけない。
 だが概念化は、ある意味、人間に残された最後の道具であると見ることもできる(キェルケゴールを見よ)。笠井がものごとを概念化する手つきのうちには、事大主義的に見えるところもあれば、思考のリズムにムラがあるように見えるところもあることはあらかじめ指摘しておこう。ジャック・ル=ゴフらを援用しつつも、アナール学派的、ひいては実証主義的な歴史観への批判精神の薄さも見えないことはない。「大審問官」の読み込みにも踏み込んだところがほしかった。
 だがそれは、むしろ論じている対象そのものの難しさを表しているだけなのではなかろうか。割り切ることのできないものについて思考を強いられた際、『例外社会』の記述は自分がどう考えてきたのか、そうした思考の経路を明晰にしておこうという姿勢を「あえて」崩さない。この本が信頼できるのはその点だ。すなわち、私たちは笠井の、ともすれば迂遠と評される論証の過程を読んでいくことで、鵺のように変貌する時代精神の、その輪郭を人文主義的な文脈のなかにおいて、はっきりと体感することができるのだ。


 それゆえ、ひとつここに宣言しなければならない。
 『例外社会』を冗長と評価するのは間違っている。柄谷行人がやっているような、歴史性の過度な単純化による暴力を招かないためには、どうしてもこれだけの長さが必要であったのだ。迂遠に見える記述は、論じる対象について、明晰さを崩さず繊細に語ろうとするための必然である。
 同じように、『例外社会』に圧倒された、自分には教養がない、と嘆くのも間違っている。この本に圧倒されてはいけない。むしろ執拗に食いついて、思考の運動を体験しなければならない。ちりばめられている固有名は、よい意味で飾りだ。今回取り上げられているのをきっかけで読もう、ぐらいの気分でよい。
 最後に、『例外社会』を読んで、〈知〉が恢復されたと喜ぶのも間違っている。この本は、おそらく出発点でしかないからだ。「例外社会」が到来しても「国家」はなくならない。「例外社会」と「国家」の統制は同時に進行する。



 書店において思想系の棚に行けば、『例外社会』のような書かれ方をした書物は皆無に等しいということがわかるだろう。ジャーナリスティックな書かれ方の書物ばかりだ。それは笠井のような古式ゆかしき人文学的な知を基盤とした「うねりのある」思考法そのものが、いまや危機に瀕しているということを意味しているのではないか。
 孤独で、偏狭で、何ら外部的な手助けをも得ることのできない個人がいたとしたら、思惟という名の疥癬を掻きむしっていかなければ生きていけないとしたら、もはや自分のみを頼みとして、方法を徹底させるしか道はない。
 そうした決意をした際によすがになる本としては、少なくともここ数年来に書かれた現行の日本の批評家の手になる書物のうちでは、この批評集が最良だ。そう、私は断言する。

例外社会

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