伊藤計劃の商業誌未発表短編と、おまけの小論


 伊藤さん、SF大会は行けなかったけれども、『ハーモニー』が星雲賞受賞だってよ。おめでとう。

ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

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 Randam butterさまにて、伊藤計劃氏が同人誌に発表された小説「セカイ、蛮族、ぼく。」が発表されています。
http://randambutter.blog.shinobi.jp/Entry/157/
 ブログ主さまの理念に共鳴し、ここに全文を転載させていただきます。

セカイ、蛮族、ぼく。
伊藤計劃


「遅刻遅刻遅刻ぅ〜」
 と甲高い声で叫ぶその口で同時に食パンをくわえた器用な女の子が、勢い良く曲り角から飛び出してきてぼくに激しくぶつかって転倒したので犯した。
 ひどい話だと思う。ぼくだって好きこのんでこんなことをしたわけじゃない。なんで彼女の制服を引き裂いて無残にも彼女の純潔を奪わねばならなかったかというと、それはぼくが蛮族だからだ。
 ぼくにぶつからなければよかったのに。なんで。なんできみは、衝突する相手にぼくを選んだの。ぼくに罪を重ねさせたいからなの。ぼくの蛮族の血を自覚させたいから、自己嫌悪で溺れさせたいからなの。
 自己嫌悪なら、たっぷり抱え込んでいる。ぼくはマルコマンニ人だ。マルコマンニ。ぼくはこの響きがほんとうに嫌いだ。フェラガモ、エロマンガ島スケベニンゲン、一万個、レマン湖、マルコマンニ。ぼくは転校して自己紹介をするたびに嘲笑される。「マルコでマンニかよう、へっへっへ」とかいうふうに。だからぼくはそんな事を言う連中の首筋や頭蓋にアックスを叩きつけなきゃいけなくなる。そんな血の海地獄を繰り返すくらいなら、おおざっぱにゲルマン人と名乗ったほうがどんなにマシだろうか。
 でも父さんはそれを許さない。お前はマルコマンニ人だ、堂々とそれを名乗ってから勝鬨をあげろ、と。
「気に障る異民族は犯すか殺すか奪うに限るな」
 父さんはそういってガハハと下品な笑い声をあげる。ぼくの気持ちにはおかまいなしだ──マルコマンニに生まれたことを心の底から嫌悪している、このぼくの心には。
 学校に出て来て、ぼくは自分の机の前にやってきた。茶色のニス塗りした表面に、誰かがマジックでいたずら書きをしていた──と言えればいいのだけれど、もちろん、それは「いたずら」なんていう生易しいものではない。

 
  人殺し

 
 くっきりはっきりのゴシック体。レタリングが上手だな、とぼくは思った。
 憂鬱な眼差しをグラウンドに向ける。当然だけれども、こんなぼくに友だちはいない。一緒にいたら、斧か戦槌がいつ頭蓋のてっぺんに叩き込まれるかもしれないというのに、ぼくと関係を持ちたがる物好きがどこにいるだろうか。ぼくはこの三十人の教室に在って、いつも孤独だった。これまでそうだったように、そしてこれからもそうであるように。
 と、先生が入ってきた。みんなが席に着いたことを確認すると、芝居がかった咳払いをひとつする。その爬虫類のように感情のない瞳が、一瞬ぼくのほうに向けられたような気がした。この先生が、何で私のクラスに蛮族の子がいるんですか、と校長先生に涙ながらに抗議した、という話は公然の秘密だ。
「今日、みんなに新しい仲間を紹介するはずでしたが」
 と先生が言ったので、ぼくはうんざりした。なんということだろう。なんで世界はぼくにこんな不幸ばかりを押しつけるのだろう。
「残念ながら、彼女は今日ここにこられません。ここに来る途中で、蛮族に陵辱されてしまいました」
 ぼくがやった、すべてぼくのせいだ、そう立ち上がってみんなの前で告白してしまいたかった。でも、そんなことをすれば非難と軽蔑の嵐がぼくを包み込み、またぞろかち割れた頭と肩から胸までざっくり裂かれた胴体の山を築き上げることになる。ぼくはそんな血なまぐさい光景はうんざりだ。人殺しの落書きのおかげで、ぼくの野蛮は発動させるべき閾値にすでに達しつつあるというのに。
 皆の視線を感じる。
 お前がやったに決まってる。お前のせいに決まってる。
 そう疑う皆のとげとげしい視線をからだじゅうに感じる。もちろんぼくがやったのだし、ぼくのせいだし、こんなぼくは死んだほうがいいこの世で最低に下劣な生き物だ。
 でもぼくはそうしない。蛮族は自分の手首を切ったり、首をくくったりしない。蛮族が切るのは他人の手首で、くくるのはローマかフン族の首だ。蛮族は無自覚に自分自身の生を肯定して、異民族を踏みつけにするどころか殺すことも厭わない。
 でも、それじゃいけないんだ。
 これほどまでに自省という言葉を欠いてずるずると生きていちゃ、いけないんだ。父さんとか母さんみたいな、醜い生を醜いとも思わずに、所与のものとして享受してはいけないんだ。昼休み、弁当や購買で買った焼きそばロールを頬張るクラスメートから距離を置いて、斧の柄を肩にもたせ掛け、脚を机に投げ出しながら、生肉にかぶりつくぼくはそんなことを考えている。蛮族であるという逃れ難い運命を憎みながら、骨付き肉を頬張る。罪と罰。野蛮と文明。ぼくは矛盾だ。ぼくは蛮族の世界の大いなる矛盾の針先だ。
「げげ、生肉なんかよく口にできるわね」
 学級委員長がぼくの机の前にやってきて、芝居がかった嫌悪感を見せる。ぼくは溜息をつき、
「蛮族だからね。ブルータルでクルードなのが、ぼくの天然なんだ。ほっといてくれ」
 すると、委員長はぼくの机の上にハート柄の包みにくるんだ弁当箱をどっかと置いて、
「これ、食べなさいよ。このわたしがわざわざ作ってあげたんだから」
「なんだよそれ」
「そんな生肉を食べてるのを見てたら哀れで見てらんないの。野蛮人に文明の味を教えてあげるっていってるのよ。べ、べつにあなたに好意があって作ってきたとかそういうのじゃ絶対にないんだからねっ。朝お弁当作ったら材料が余っちゃったから、ついでに箱に詰め込んできただけよ。野蛮人にはこんなんだってご馳走でしょ」
 やれやれ。ぼくは強姦した。委員長の言葉ときたら、いちいち蛮族のぼくをいらいらさせる。泣き叫ぶ委員長の服を引き裂きながら、ぼくは黙々と自分の種族の血に従う。
 ああ、ローマへ行きたい。あの鉛色に沈み込むドナウの流れを越えて、文明と光の街へ飛んでいきたい。でもそれは叶わないんだ、絶対に。
 だって、ローマはマルコマンニの敵だから。
 ローマの軍隊はドナウをはさんでぼくらと睨み合っているから。
 孤独の裂け目を毎日少しずつ広げてゆくだけの学校から、こちらはこちらで余り戻りたくない蛮族の家に帰ると、驚いたことに父さんがすでに帰って来ていて、机の上に出来立ての生首を飾ってガハハ笑いを部屋の壁に染み込ませようとしている。
「その笑い声はやめてよ、父さん」
 とぼくはうんざりして言い、
「すごく下品だよ」
「わしらは蛮族だぞ、下品なのは性質だろうが。品が下なんじゃなくてな、そもそも品が存在しないんだ。自明すぎて自省するのも馬鹿らしいくらいに蛮族だ」
 そう言って父さんは机の上の頭を自慢げに示し、
「どうだこれ、ローマ軍の使者だぞ。いまとなっちゃ死者だがな」
 そしてガハハ笑い。ぼくは溜息をついた。
「胴体はどうしたの」
「馬にくくりつけて、マキシマスとかいう奴らの将軍に送り返す。もうすぐ戦だぞぉ。アウレリウスも来てるらしい。知ってるか?ローマの頭領だ」
「頭領じゃないよ、皇帝っていうんだ」
 ぼくはそう訂正して、頭を横目で見る。額には「SPQR」の文字が小さく刺青してあるのがわかった。携帯電話の「7」のキーにすべて押しこめられているこの四文字。この哀れな頭の持ち主は、ぼくたちマルコマンニに和平の申し出をしにきただろうこの死者は、正真正銘ローマ市民だ。セネトゥス・ポピュラスクェ・ロマヌゥス。元老院およびローマ市民。
 ローマ。はるかかなた、どこか遠くの、決して届かない知性と文明の街。
 そしてぼくは自分の部屋に閉じこもり、眠りにつく。蛮族のぼくの家にはシャワーも風呂もないから、そのまま寝床に入って胎児のようにうずくまり、ぼくの正気を蝕もうとする父さんのガハハ笑いから自分自身を隔離するために、手のひらでしっかりと両の耳を塞ぐ。
 そう、明日は戦にいかなきゃならない。黒い森のなかで哲人皇帝の軍勢と向き合って、恐ろしい大きな木の腕で遠くから燃え盛る火の玉を投げつけてくる連中に、虚勢をはらなきゃいけないだろう。知性も慎みもかけらもない、喉から発する、コトバであるべき音の連なりを、獣の咆哮にまで貶めた、そんな蛮族の唸りをあげなければならないだろう。
 セカイは、ぼくを、ぼくがそうありたいようには決してさせてくれない。
 蛮族であることから逃れられるのであれば、ぼくはよろこんで目玉をふたつ捧げよう。
「おやすみ」
 ぼくは机に飾ってあるローマ人の頭蓋骨にささやいて、目蓋を閉じる。
 その眼窩の空洞が、じいっとぼくを見つめているのを、かすかに意識しながら。


 さて、この小説、いかにも小品らしく、わかりやすく、それでいて何とも計劃テイスト全開の話です。
 ナマの声が出すぎており、それはむしろ欠点でしょう。この作品を佳作と評する声も多いようですが、私はそうは思わない。語りがあまりにもナイーヴにすぎ、『虐殺器官』のように語りの「声」が主題を盛り上げてない。たとえ蛮族との対比を際立たせる意図があるにしろ、おたく論壇的な自意識の牢獄に回収されるだけになるのでむしろ逆効果でしょう。伊藤計劃の小説作品のなかでは、下位に入るものではないかと思います。


 そうお断りしておいたうえで。
 伊藤氏はSFというジャンルにリスペクトがあった作家ゆえに、私はSF的に読んでみますね。

 
 この小説が下敷きにしている作品は、ハリイ・ハリスンの『テクニカラー・タイムマシン』(1967、日本語版は1976年)ではないでしょうか。
 いや、本人が読んでいたかどうかには関係なく(笑)、牽強付会の誹りもなんのその、私はその流れで理解します(伊藤氏は、SFの過去作品を驚くほど深く読んでいた人でした)。
 モンキー・パンチの表紙が素敵なこの本、コミック『ヴィンランド・サガ』の主役である「ソルフィン・カルルセフニ」が登場するコミカルなSFです。


 『テクニカラー・タイムマシン』は、倒産寸前の映画社が、起死回生を図って、タイム・マシンを活用して、実際にロケ隊を11世紀に送り込むというお話。
 そこで出合ったヴァイキング(もちろん、ソルフィン)をうまく手なずけ、映画の主役に使おうとするわけです。


 「セカイ、蛮族、ぼく。」のドタバタ感、スラップスティックな感覚は、どことなくハリスンのテンポを思わせます。
 ただ、ハリスンの小説のヴァイキングは、次第に映画会社の流儀に馴染んできて、しまいには、主演女優と結婚までします。それに比べ、この伊藤氏の小説の語り手であるゲルマン人は、蛮性のもとにすべての自由意志を奪われた存在になっている。


 実際、我々現代人に蛮人の内面はわかりません。
 私はヴァイキング世界を舞台にしたRPGをさんざんやったことがあるのですが(http://d.hatena.ne.jp/Thorn/20040903などを見てね)、ヴァイキングの内面を描写するのは、はっきり言って難しいです。


 英雄の叙事詩を吟じる筋骨隆々たるサガの歌い手すら、武勇を重んじるヴァイキング社会では異端です。
 そして、いざヴァイキングについて知ろうと『エッダ』や『グレティルのサガ』を読んでも、そこに書かれているのは不意の衝動による殺人と近親相姦を基体とした愛憎劇ばかり。
 ちょっと視点を離そうと、カエサルの『ガリア戦記』を見ても、ガリア人の酋長ウェルキンゲトリクスがものすごく高潔だということはわかる。けれども、その内面を、私たちと地続きのものとして共有はできない。


 ジェイムズ・ジョイスにしろ、ヴァージニア・ウルフにしろ、マルセル・プルーストにしろ、20世紀文学の多くは、輻輳化する内面をいかに描写するかを心がけていたところがあります。
 ところが、そうした内面にまったく頓着なく、古代への憧憬を純粋なエンターテインメントとして提示した、ロバート・E・ハワードの『コナン』シリーズのような作品もあるわけです。実際、L・スプレイグ・ディ・キャンプの描いた『コナン』序文を見ると、ハワードの「コナン」が、20世紀的な分裂症的精神性への「アンチ」だということがわかります。そう見ると、『コナン』は単純なエンターテインメントではない。栗本薫の『グイン・サーガ』に最も欠けていたのは、かような『コナン』の批評的な側面でした。


 だからこそ、今回のような伊藤氏の「遊び」が生きてくるわけです。
 「セカイ、蛮族、ぼく。」は小品ですが、読めば否応なしに、現代と、蛮人が活躍する古典古代との間の溝を意識させられる作品になっています。


 さて、ここで質問。
 野蛮人が持ってて、現代人が持っていないものって何でしょうか?