『社会は存在しない』刊行記念トークイベントに参加してきました。


 8月2日に青山ブックセンターで開催された『社会は存在しない』刊行記念、佐々木敦×蔓葉信博×渡邉大輔のトークショーセカイ系のクリティカルターン〜2010年代の批評へ向けて」に参加してきました。http://www.aoyamabc.co.jp/10/10_200908/_2010200982.html

社会は存在しない

社会は存在しない

 このイベント、私は何気なく関係者席に座ってしまっていたのですが、イベントの企画立案そのものについてはまったくコミットしていないし、そのような立場にであるとも自認していなかったので、座る場所が違っただけであって、純粋にいち観客として来場したと言ってよいでしょう(また、執筆者だからと言って、来場を強要されたりもしませんでした)。
 なので以下の所感は、「関係者」ではなく「いち来場者」としての「岡和田晃」がどう思ったのかということに関しての端的な感想になります。


 正直、「セカイ系」というタームがどの程度の訴求力を持っていたのかは、蓋を開けるまで未知数だったのですが、いざ会場に到着すると、青山ブックセンターのイベントスペースの客席は満員に近い状態でした。加えて言えば、来場者の方の世代も性別も特に偏りがあるようには思えませんでした。
 談話の内容そのものは、近いうちにCINRA.NETに写真などとともに発表されると思いますので詳しくはそちらを参照していただきたいのですが、極めて刺激的なイベントであったと思います。
 ぱっと「セカイ系」という言葉を耳にすると、それはあまりにもサブカルチャーの一分野として閉じてしまっていたり、Web上の特殊な嗜好のひとにのみ受容されているように思われがちです(しかも、Web的な言説においても、「セカイ系」をいささかの留保もなしに手放しで誉めるような意見は「セカイ系」に好意的な人の間であってもほとんど見受けられません)。しかしながらそれが、サブカルチャーの一分野への特異な部分社会的な問題系から、広く社会そのものの時代性や構造の問題へと敷衍されうるのであれば、そこには(いわゆる「脱格系」やそれに類する文化におよそ関心のない私のような人間であっても)考える価値が生まれるでしょう。『社会は存在しない』は、まさにそのような問題意識においてまとめられた論集であった。すなわち主題となっているのは「福祉社会の消滅」です。


 実際このトークショーでは、「セカイ系」の問題が、私たちが生きる情勢が、いわば1930年代的な「例外状態」(戒厳令に伴う緊急事態的状況。本書の文脈では、国家による福祉政策が効力を停止した結果、個人の内面が蹂躙されるようになった事態に準えられます)に近いものへと化してしまっており、そのような状況に伴う内面の喪失をメタレベルから自覚せざるをえない文化的状況、さらにはその自覚を半ば受け入れながらもどこかで喪失したはずの内面がささやかに繋がることを望んでしまうという私たちのアイロニカルな態度表明が、改めて浮き彫りにされました。
 あくまで私の感触ですが、『社会は存在しない』が提示した「セカイ系」の問題がいわば社会の構造的な視座を有していたということには、トークショーでのかなり早い段階から合意が得られていたのではないでしょうか。
 ただし、また一方で、「すり合わせ」の有無や各登壇者の話術とは関係なしに、渡邉氏+蔓葉氏(限界小説研究会の面々)と、佐々木氏の間にはおそらく少なからぬ認識の違いがあったように思えました。それは何だったのだろうとしばらく考えていたのですが、おそらく「例外状態」的なものをどう受け止めるのか、そのスタンスの違いなのではないかと感じました。


 「例外状態」というのはドイツの公法学カール・シュミットの用いたタームです。そこでは、ヴァイマル共和制によって確立された(とされる)民主主義的な近代国家が前提とされていました。スタンスや意見の違いがあるにせよ、『社会は存在しない』の執筆者には、かような「例外状態」がいわゆる高度資本主義の発達に併行して恒常化してきたのではないかというような前提を共有している部分があるのではないかと思います。しかし佐々木氏にはどこか「「例外状態」が恒常化して認識されてしまったのであれば、それはもはや例外とは言えないのではないか」と認識していた節があったように思えました。いわば「卵が先か、鶏が先か」に近い、難しい問題がここで突きつけられれることになったわけです。


 当日配られたペーパーに記載されていた「Studio Voice」掲載の笠井潔『例外社会』についての短評で、佐々木氏はさらりとイタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンに触れ、「しかし関係ないが私はアガンベンをまったく評価できない。彼は常に「政治的に正しい」ことを除けば単なる知的ペダンティストディレッタントではないか?」と述べていましたが、おそらくこのあたりに、両者の間に生じていたひとつの溝を考えるヒントがあるのではないかと思います。
 言うまでもなくアガンベンとは、カール・シュミットの理論を引き継ぎ、近代国家そして近代国家「以降」の主体の在り方についてをも思考の射程に入れた哲学者です。その代表的な著作『ホモ・サケル』では、古代ローマ帝国に存在した「殺されたとしても殺した者が罪に問われない階級」の存在について言及し、それを主権者が「例外状態」において決断を下す特権を裏側から担保するものとして描き出しました。『ホモ・サケル』でのアガンベンは明確な左派的主張を打ち出しているわけではなく、あくまでも国家の構造を人間同士の関係性の力学として描き出そうとしています。
 そのためにアガンベンは、絵画や文学を理解する際に用いる美学理論に近い認識方法を取ります。いわば、文学的に国家というシステムを描き出そうとしているわけです。これは彼が社会学的なアプローチを軽視しているというよりも、ヨーロッパの伝統である美学理論を援用した方が、説得的に国家の構造を説明しうると受け止めていると理解すべきでしょう。それゆえ、アガンベンはあくまでシステムについて語ろうとしているのであり、「政治的な正しさ」を打ち出しているのではないと言うことができます。

ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生

ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生

 しかし一方で、アガンベンの哲学は難しさを孕んでいます。なぜかというとアガンベンが基体とする思考には、ヨーロッパ文化の基底にある宗教性や美学性といったものが脈々と根づいており、そこを積極的に掬いに行かない限り、読み手は弾かれてしまうからです。アガンベンの思想はどうしても他者性をもった言葉で例証することは難しく、アナロジーの繋がりに委ねざるをえない部分が残ってしまいます。そこがアガンベンの良さでもあるのですが、その言説はあまりにも文学的であり、そして社会は文学的な言葉を拾うための余裕をもはやほとんど残していないように見えます(文学ほど必要とされているものはないというのに)。


 一見構造が似通って見える「セカイ系」と(芸術における)「ロマン主義」の違いを例に出せば、おそらくこの断絶の意味がよくわかるのではないかと思います。
 かつて文学や芸術という言葉が(それが真理であるという幻想を共有しているがゆえの虚妄に過ぎないとしても)機能していた時代には、古典主義的なフレームを越える「ロマン主義」は理念を共有する媒介項となりえました。だから芸術批評の枠組みを刷新するだけの解釈は、芸術そのものが内包する豊かさや多様性を担保する要素として大いに歓迎されえたわけです。いわば「ロマン主義」は開かれた芸術批評の概念であり、それゆえ貪欲に他者性を許容することができた。もちろん民族ロマン主義のようにロマンが規定する宗教性・民族性に規定されている部分が残るのは事実ですが、それでも「ロマン主義」が開かれた言説を志向していたことは確かでしょう。
 ところが、私たちが「セカイ系」的な自意識を抽出する際には、おそらく「セカイ系」的な想像力には出口がないということを、心のどこかで心得てしまっている部分がある。つまり、ある種の断念から出発してしまっていることは間違いない。それは「ロマン主義」とは決定的に異なる思考の形式であり、それゆえに「セカイ系」を考える際には、どうしても断絶が起きてしまうのではないでしょうか。


 たぶん、未来の批評を考えるにあたり、ある種の断絶が出発点になっているということは、登壇者全員が共有していた問題ではないかと思うのです。しかしながら、「セカイ系」のような断絶を考察の中心に据えた場合、人文科学的なアプローチによって断絶を乗り越える方法は、常に自己矛盾を内包せざるをえない。現に『社会は存在しない』に記載されていた藤田直哉氏の「セカイ系の終わりなき終わらなさ」という論文で考察されていたのは、まさにこのような自己矛盾した主体の在り方そのものでした。そして、かような自己矛盾を超克しようとしても、その超克を担保するものは何もない。
 佐々木氏は『ニッポンの思想』に続く著作『未知との遭遇』の概要を説明する際に、セカイ系的な閉鎖性を乗り越える「出会い」について語りました。そこでは、確たる「私」が自閉した殻を破るだけの力ある主体として示されます。ただし、日本の小説においてこうした自閉性について最も先鋭的に考察を重ねていた笙野頼子の『だいにっほん、おんたこめいわく史』『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』を読んでいた身としては、こうした「私」の構造が無限連鎖と自縄自縛を招くものであり、そうした自縄自縛を導くシステムに「私」のみで対峙することの難しさは肌で感じていました(しかも、笙野はデビュー作の『極楽』からずっと「私」のことを考え続けてきた作家です!)。私は笙野頼子は、こうしたシステムと個人の問題について最も――おそらくは既存の批評の言葉が追いついていないレベルで――考えている作家であると受け取っていますが、彼女でさえ、『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』の最後は非常に苦しい結末を選択せざるをえない。それゆえ「萌神分魂譜」や「海底八幡宮」のような新たな作品で位相を変え、「私」の輻輳性へと問題意識をスライドさせているわけです*1

だいにっほん、ろりりべしんでけ録

だいにっほん、ろりりべしんでけ録

 仮に「私」同士が殻を破って、「繋がる」ことができたとしても、かつて「橋」の隠喩で社会学者のゲオルグジンメルが示したような繋がりを保証する要素は残らない。繋がりの保証を、既に捨て去ってしまっているので。アーキテクチャを有効活用できればそれもよいのでしょうが、しかしながら残念ながらそれだけでは、新たな「セカイ系」を導き入れるだけに終わってしまうのではないでしょうか。極めて厳しいセカイ系批判の書である伊藤計劃の『ハーモニー』で描かれた事例が、そのことを予見的に表しています。


 いずれにせよ、仮に「セカイ系」の在り方を精算できたとしても、来たる2010年代に考察の対象となるのは、本イベントで考察されたような「ロマンなきロマン主義」の在り方そのものになるのは間違いないでしょう。そうした意味において、本イベントによって提示された断絶について考えることで批評がどこへ向かうべきかを認識させられたことは確かです。登壇者の皆様、来場者の方々、どうもお疲れさまでした。


追記:なお打ち上げの席で、とある名を知られた批評家の方から「批評の未来はTRPGのモデルを参考とすべきだ!」という力強いご意見をいただきました。これは冗談ではなく、例えば『D&D』ファンのように、決して安くはないサプリメントをきちんと購入しつつ、各人が遊びの創造に参画しているという意識をもって読者共同体を確保できているという現状を評価いただいたと思っております。TRPG者は自信をもってよいのではないでしょうか。

*1:http://d.hatena.ne.jp/Thorn/20080612を参照して下さい