少しずつ、アルフレート・デーブリーンの『王倫の三跳躍』を読み進めておりました。これがびっくりするほど面白かったので、ごく簡単にですがご紹介しておきます。
デーブリーンは『ベルリン・アレクサンダー広場』で知られる、ドイツ表現主義を代表する作家と言われているのですが、これはその初期の作品にあたるもの。で、舞台は清の時代。つまり簡単に説明すれば、両大戦間期のドイツ人がドイツ語で書いた、中国の義和団時代を背景とした小説を日本語に訳したものなのです。
文学においては、トポスというものが重要視されます。日本人が日本語によって、周囲の光景をトレースして書くこと。そうして初めてリアリティが生まれる。
こんな古くさい考え方から出発することが、なぜか暗黙の前提として求められるのが現状です。
「純文学は自由だから、何を書いてもよい」なんていうのは大嘘。こうした無言の前提がいっぱいあるのです。
でも、『王倫の三跳躍』。
ドイツ人がドイツ語で中国の話を書いて、それが日本語に移し帰られた現物を読み進めるうちに、私は興奮しました。
めちゃくちゃ面白い!
ドイツ文学の法王と呼ばれる批評家、マルセル・ライヒ=ラニツキは、この小説を適当に見繕った資料で書き殴ったトンデモ小説だという具合に罵倒していたと記憶しています。
が、果たしてトンデモで何が悪いんでしょう?
作者デーブリーンのニーチェ的なルサンチマン、あるいはセリーヌ的な生への呪詛が、『王倫の三跳躍』に充溢する生への躍動感と、ぴったり合致しています。
このダイナミックさは、他にはない。それを前にしては、チンケな考証なぞ何したもの。そうした作業以上に、時代精神の最も大事な部分をデーブリーンは把捉できていた。
酒見賢一の『後宮小説』に「混沌」という、何を考えているのかがさっぱりわからない素敵なキャラクターが出てきましたが、『王倫の三跳躍』では、登場人物がみんな「混沌」みたいなものなのです。
なにせ「無為」を奉じる「真弱教団」に「破瓜教団」(もちろんエッチな意味です)が大活躍!
その原初的なパワーが、小説の全体にぎっしり詰まっているのです。文体はそのせいか生硬にも見えますが、これ以上緩くしてしまったら、かえってダラダラしてしまうだけなので正解でしょう。
ついでに言えば、渡邊利道さんが、「晩年の中上健次はこういう作品を書きたかったのだろう」という意味のことをおっしゃってましたが、まさにその通りだと思います。
生温いエンターテインメントに飽き飽きしていて、もっと高濃度のエンターテインメントを渇望している方は、ぜひ。
現代の小説には骨がない、と思っている方は、ぜひ。
近代文学の枠組みを越える近代文学を探している方は、ぜひ。
絶版ですが、図書館で探す価値はあります。
- 作者: アルフレートデーブリーン,小島基
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 1991/10
- メディア: 単行本
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