RPGの可能性について


 『アゲインスト・ジェノサイド』が発売されてからそろそろ5ヶ月が経過します。
 幸いなことにこのリプレイはそれまであまりRPGに触れたことのない人や、昔RPGやっていたけれども今はごぶさただという方々にも手にとっていただくことができたようです。ありがとうございます。
 比較的最近の話では、「芝フ調」さまで大きく取り上げていただきました。
 本当にありがとうございます。


・芝フ調
http://cocteausoba.blog.so-net.ne.jp/2009-08-27


 ただ、いただいた感想の最後の一文を読んで考えさせられてしまいました。

TRPGから離れてはや二十年近いのだから。でも、あれは確かに楽しかったよな、と思い出させてもらえたことに感謝。またやってみようかなって一瞬。

 つまり、この「一瞬」を「一瞬」のままに終わらせず、もう少し背中を押してあげるためにはどうすればよいのだろう、ということを思ってしまったんです。


 岡和田は常々、色々なところで「忙しい社会人でも、月に1回くらいはRPGに時間を割くことができれば、生活がもっと豊かになるのではないか」と提唱しています。
 ただ、定期的にRPGを遊ぶことのできる環境を構築したり維持したりするのは、現実としてけっこう大変だったりする面があるのは否めません。
 ならば、この「豊かになる」ことについて、もうちょっと具体性を帯びたヴィジョンがほしいとも思うのです。



 以前、SF乱学講座というイベントで、ゲーム性と物語性の関係についての私の考えを発表させてもらいましたが、RPGはゲームであるとともに、物語を再解釈するジャンルであるのは間違いありません。*1
 それならば、ゲームを出発点として物語の多様性に開眼し、その後(例えば)ミステリやSFへと流れていった人たちに対し、RPG畑の人間はどのような応答をすればよいのでしょうか?
 これ、けっこう重要な命題なのではないかと思うんですよ。



 1つの方法としては、「RPGの何が面白いのかということを、しっかりと言語化できるようにする」、といった解決策があるのではないかと思っています。
 そのためにリプレイという媒体は重要です。
 普通、RPGリプレイというものは読み物の体裁を取って出版されるものでして、当然ながらゲームの要素抜きで読めるようにしつらえられるのが最低条件となっています。*2


 こうしたやりとりに元来「ゲームの要素」は必要なくて、筋書きとキャラクターさえあれば、あとはエチュードのようにお話をいくらでも進めていくことができてしまいます。
 その意味では、文字通りRPGのリプレイというものは演劇の脚本に近いと言ってしまうこともできるわけです。ゲームのチュートリアルといった目的からは外れるものの、ゲームの言葉を使わずに、小説的な描写ですべてを書いてしまうことも原理的には可能です。*3


 にもかかわらず、なぜゲームの文法を組み入れる必要があるのでしょうか。私見では、ゲームのルールシステムによって、物語に別個のリアリティを加味させることができるからではないかと思っています。
 ゲームシステムとは、「単一の存在=神の主観」のみで特定の状況に判定を下すのではなく、ある特定のシチュエーションを、参加者全員が共有できるお約束として構造化したものを意味します。


 例えば、「カルタゴの植民や貿易をテーマとしたボードゲーム」があるとしましょう。
 私たちがカルタゴの歴史書を読んで状況を分析しても、分析する者は最終的には一定の見解を与えなければならず、カルタゴの植民や貿易の総合性をそのまま把捉することには困難が伴います。どこかで主観が混じってしまうのです。*4


 しかしゲームという方法を用いれば、植民や貿易の運動性やダイナミズムといったものを一種のブラックボックスとして提示することができます。
 私がゲームを面白いと思っているのはまさにこの部分で、他のジャンルではなかなかモデルとして取り出せないような、運動性や流動性が高い状況をそのまま再現することが可能であるわけです。*5
 その意味では「戦争」のような状況はゲームと非常に相性がよく、もともとRPGシミュレーションゲームから派生したというのもよくわかる話でしょう。
 最近でも英語圏では、コーカサス地方の戦役をシミュレーションゲームとして構造化させることに成功したようです。うーん。やってみたい。


 『コーカサス・キャンペーン』
 http://mas-yamazaki.blog.so-net.ne.jp/2009-01-25



 もちろん、ゲームという体験に根づく審美的な「快」といった感覚ももちろん存在します。
 しかし一方で、ゲームを面白いと思う感覚は、ゲームシステムに根づく数学的なシンメトリーから美を享受するというものよりも、「なんだかわからないけど面白そう」→「遊びこむとできることが増えてくる」といった認知・学習の過程により相性がよいのではないかと私は考えています。


 RPGのようなストーリーゲームの場合は、「ゲームマスター×プレイヤー」間のすり合わせによって構成されたストーリー部分と、ゲームシステムへの習熟や運用によって得られたブラックボックス的な不確定性から最良の選択を取り出した部分とが、うまく噛み合った際に最も面白いものができるのではないか……。
 それが『アゲインスト・ジェノサイド』を書く際に考えたことでした。 *6


 では、その先に進んでいくにはどうすればよいか? それが今、私が抱えているテーマなのです。



 私としては、こうした物語とゲーム性との幸福な結婚を考えることは、「ハードSF」や「本格ミステリ」といった、物語のフレームとそれ以外の要素が密接に連関している文学ジャンルについて考える際にも通用する、普遍的な有効性を持ちうるのではないかと思っています。


 もちろん、何か特別に小難しいことをやる必要はないとは思うのですが、忙しい社会人が月1回、RPGに時間を割いたとして、その月1回によって、普段触れている物語についての認識が、いっそう新たにされるような物語的なインセンティヴがあるはずではないのか。そうしたインセンティヴをどうにかして追究していきたいのです。
 商業媒体・ブログ問わず、何か新しい知見が得られましたら、発表して皆さんと共有できるようにしたいと考えておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。


追記:ブックマークで「忙しい社会人としては、事故防止のほうがありがたい」というコメントをいただきました。確かにそうですね。事故を起こしてしまうと一気にモチベーションが下がってしまいますし。ただ、たとえ事故を起こしてもRPGを続ける人もいれば、「忙しいから」とやめてしまう人もいる。事故が起こっても、次にそれ以上の見返りが自分的に期待できれば、がんばることができるのではないかと思うんですよ。事故の予防はものすごく大事ですが、警戒しすぎて守りに入ってしまうと、惰性でRPGを続けることになってしまう面も否定できないと思います。

*1:翻訳家の増田まもるさんが、SF乱学講座の感想として「オールド・ウェーヴをゲームによって見直すことができるのでは」とおっしゃっていましたが、まさにその通りだと思っています。

*2:初期の「タクテクス」誌では、限りなく将棋の棋譜に近いリプレイなんかもあったと記憶しており、あれはあれで魅力的でしたが……。

*3:実際、『ロードス島戦記』や『ドラゴンランス戦記』などは、ゲームを遊んだ経過をゲームの用語を使わず小説としてリライトしたものが原型になっています。ぱっと見、ゲーム小説っぽくなくとも、RPGが母体にある作品は意外と見受けられるものだと私は知っています。

*4:もちろん、優れた歴史家は可能な限り自分を無にするのでしょうが……。

*5:むろん、何よりもゲームは「ゲームとして面白いこと」を重視しなければならず、それゆえに素材よりはゲーム性の方に比重が置かれることもままありますが、それでもゲームが再現する題材は、そのゲームの性格を決定づけてしまうので無視はできません。

*6:つまり同書はそういった方向性を目指しているんです。一例を出せば、P179のニコと小夜のやりとりなどは創作ではなく実際にあったことであり、だからこそ意味がある。