12月6日の第九回文学フリマで発売される雑誌「幻視社」第4号に寄稿しました


 12月6日の第九回文学フリマで発売される雑誌「幻視社」第4号に寄稿しました。詳しくはこちらをご覧下さい。


文学フリマ 参加サークル一覧
http://bunfree.net/dai9kai/
 スペースはA-11「幻視社」になります。


 会場は京急蒲田駅近くの大田区産業プラザPIOとなります。
 リンク先の公式に地図がありますよ。
http://bunfree.net/


 なお今回の幻視社は第4号、通算5冊目、始めてから6年目となります(1回落ちました)。私は昨年の第3号に引き続き、2回目の参加となります(このブログの「幻視社」のタグをたどっていただくと昨年の様子がわかります)。
 さて、まずは表紙をご覧下さい。さすが、狩野若芽画伯!


 表紙の女の子は、今回初参加の柿崎憲(id:Lobotomy)氏をモデルにしているとかいないとか。
 私は柿崎氏を昔から知っていますが、ブログを書いているとは露も知りませんでした。
 ここだけの話、柿崎氏って――男名前を使いバッドテイストを装っていますが――その正体は「平成生まれの美少女」なんですよ。芸能人だと堀北真希似? でも私がおきつねさまに化かされているか、ドッペルゲンガーにダマされていない限り、本人なのは間違いないと思います。
 なぜって、この人のアラン・ムーアへのこだわりは本物でしたから。http://d.hatena.ne.jp/Lobotomy/20091125
 文学フリマに来れば、ひょっとすると彼女に会えるかもしれませんよ!?

 与太はさておき、恒例のテーマ特集は「見えないもの」。そして同時に「特集 追悼 向井豊昭 1933〜2008」という二段構成でございます。
 分量も過去最大の120ページ超! 部数も持ち出し上等の130部刷りました!


 それでは、目次をどうぞ。私たちの意気込みをぜひご覧下さい!

●テーマ特集 見えないもの

 ――小 説――

服部半蔵  柿崎 憲
バカと世界の物語  エンドケイプ
週刊基地外娘  佐伯 僚


 ――評論・雑文――

「世界劇場」から外れた演技者ジュヌヴィエーヴ――ジャック・ヨーヴィルドラッケンフェルズ』と「流血劇」についての試論   岡和田 晃
見えていても見えない  東條 慎生


 ――テーマ外・小説――   

Trois contes 渡邊 利道


●特集 追悼 向井豊昭 1933〜2008


 ――未発表小説――

パパはゴミだった。
40代バンバンザイアットホームカウンセリングコーポレーション(1)
六花


 ――論考・エッセイ――

見えないものこそ、見つめなければならないのだ――向井豊昭メモ  東條 慎生

「わたしは誰の命令も受けてはいない。わたしを貫く、歴史の声に突き動かされているだけ」――向井豊昭論序説  岡和田 晃

向井豊昭氏からの書簡(メール)について  岡和田 晃

付・向井豊昭著作リスト

 上記のような構成になっております。


 その他、エンドケイプ・佐伯僚・渡邊利道id:wtnbt)氏の各作品などについての詳しい解説は、代表にして編集主幹の東條慎生(id:CloseToTheWall)氏の紹介をご覧下さい。
http://d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/20091206


 ここではせっかくなので、自分が担当したものについてご紹介しましょう。
 まず、テーマ特集「見えないもの」。
 ここで私は、幻視社に根づいている異端的なものが許される雰囲気を生かそうと、今回はジャック・ヨーヴィル(『ドラキュラ紀元』のキム・ニューマンの筆名)の代表作『ドラッケンフェルズ』とその続編「流血劇」(『吸血鬼ジュヌヴィエーヴ』所収)について「見えないもの」と絡める形で試論を立ててみました。

ウォーハンマーノベル ドラッケンフェルズ (HJ文庫G)

ウォーハンマーノベル ドラッケンフェルズ (HJ文庫G)

ウォーハンマーノベル 吸血鬼ジュヌヴィエーヴ (HJ文庫G)

ウォーハンマーノベル 吸血鬼ジュヌヴィエーヴ (HJ文庫G)

ウォーハンマーノベル ベルベットビースト (HJ文庫G)

ウォーハンマーノベル ベルベットビースト (HJ文庫G)

ウォーハンマーノベル シルバーネイル (HJ文庫G ジ 1-1-4)

ウォーハンマーノベル シルバーネイル (HJ文庫G ジ 1-1-4)

ドラキュラ紀元 (創元推理文庫)

ドラキュラ紀元 (創元推理文庫)

 『ドラッケンフェルズ』は1993年に、安田均・笠井道子の両氏によって翻訳され、小谷真理氏らから高い評価を得ました。それから15年あまりが経過して、『ドラッケンフェルズ』は待兼音二郎氏らによってめでたく新訳がなされ、続編である『吸血鬼ジュヌヴィエーヴ』、『ベルベットビースト』、『シルバーネイル』をも刊行されました。
 思い返せば私が『ドラッケンフェルズ』を初めて読んだのは1995年のことでした鮮やかな語り口と巧みな構成力に感嘆させられたものです。
 その『ドラッケンフェルズ』の達成がどのようなものであったのかを、吸血鬼ジュヌヴィエーヴという特異な小説的継承の「機能」を検討する形で、ヨーヴィル/ニューマンが下敷きとしている19世紀のゴシック的な小説をも射程に含めて再検討する試論となっています。


 また、本稿は文芸畑の人へ、架空世界の創造といったロールプレイングゲーム的な想像力の可能性の一端を紹介するといった構成になってもいます。『ドラッケンフェルズ』が背景としている、疑似中世オールド・ワールドの特質を、一神教多神教の問題系を軸に語っているのです。
 架空の世界を創造するという作用が――単なる逃避ではなく――いかなる文学的な可能性を懐胎しているのかをロールプレイングゲームを軸に紹介しているつもりです。どうぞご覧になっていただけましたら幸いです。
 そのうえで、ぜひ『ドラッケンフェルズ』をもお読みになり、その多層的かつ輻輳的な物語構成から、フィクションの、そして思想の未来を汲み取って見て下さい。


 さて、最近は代替現実ゲームなどといった形で、新しい双方向的なコンテンツとして「ゲーム」がふたたび注目を集めています。
http://www.4gamer.net/games/000/G000000/20091126058/
 物語を表現するデバイスの加速度的な進化に伴い、そうしたデバイスへいかにして物語性を組み込むのかということが、フィクションにおける新たな可能性として模索されているのでしょう。現段階においては、あえてシンプルな物語の原要素といったものを軸に、「現実」と「ゲーム」の境界線を、いわゆる『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』的なリアリティ・ドラマの作法によって崩してくるといった方式が着目されているようですが、いずれこうした方法が所与のものとして浸透するようになるとすれば、必ずや再帰的に物語の強度と、物語を成立させる世界設定のあり方について問われるようになるはずです。
 そうした状況において『ドラッケンフェルズ』を考えることは、少なからず意味のある作業になるのではないかと思っています。



 続いて「向井豊昭」特集になります。向井氏については詳しくはこのブログの「向井豊昭」タグをクリックしていただきたいと思いますが、蓮實重彦氏も快哉を叫んだほどの、反骨精神溢れる稀代の作家なのは間違いありません。

BARABARA(バラバラ)

BARABARA(バラバラ)

DOVADOVA(ドバドバ)

DOVADOVA(ドバドバ)

怪道をゆく

怪道をゆく

 今回はご遺族の許可を得て、「早稲田文学」編集部に保管されていた向井氏の遺稿を借り受け、そこから選んだ未発表短篇を三篇掲載させていただいております。


 許可をいただいた向井恵子さま、向井流さま、ならびに原稿を保存して下さり送付の労をいただいた市川真人さまと「早稲田文学」編集部さまには心から感謝させていただきます。また、東條慎生氏と柿崎憲氏が、向井豊昭の手書き原稿をわざわざ電子媒体へ撃ち込んでくれました。


 こうして実現した未発表原稿の数々に加え、遺族の方の許可をいただいて収録した向井氏の筆になる書簡(メール)や、向井作品の網羅的な紹介、さらには状況を見据えた小論までをも掲載した、まさに完全保存版となっております。
 文業に比してあまりに知名度の低いこの状況に少しでも風穴を開けたいというのが、私たちの共通した願いです。


 私は全体の企画と監修を手がけ、「向井豊昭論序説」を寄せて「書簡」の編集を行ないました。
 一見この特集はテーマ特集と無関係のように見えますが、編集主幹の東條氏は「見えないもの」というテーマを向井豊昭の『怪道をゆく』から思いついたそうですし、アイヌや下北をを主要なモチーフとした(ドゥルーズ的な意味での)マイナー作家だと思われがちな向井豊昭の作品には、単なるマイノリティの政治的なメッセージ以上のものが充溢しており、それゆえに普遍的な価値があるものと見えますし、「見えないもの」との繋がりもあるでしょう。
 亡くなる直前、「わたしは誰の命令も受けてはいない。わたしを貫く、歴史の声に突き動かされているだけ」と向井豊昭氏は書きました。その「歴史の声」という「見えないもの」を、いかにして現代を生きる私たちにとって真摯な問題として現前させることができるか。
 そうした裏テーマがこの特集には設定されていると思っていただいてかまいません。


 それでは、未発表の向井作品の冒頭部をそれぞれ紹介しましょう。


 まずは死の感覚が充満する「パパはゴミだった」。書かれた時期は不明ですが、おそらく向井氏の癌が発覚してからの作品でしょう。それゆえ本稿は「早稲田文学2」に掲載された、池田雄一氏の手になる向井氏の遺作「島本コウヘイは円空だった」への解説と併せて読んでみて下さい。

パパはゴミだった。   向井豊昭


 パパの死臭は蜜のように甘い。
「甘い甘いあの世だよ」と、わたしを誘うように、パパは今朝も布団の中で安らかに死に続けていた。いや、安らかなどというものは、この世にも、あの世にもありはしない。もともとキツネ目のパパなのだが、不安そのものを跳ね除けるようにいっそう目尻を上げ、腐敗の時へ向かって窪みはじめているのだ。キツネ目に挟まれたパパ特有の高い鼻も、やがては腐ってしまうのだろう。腐敗を告げる死臭がもしも蜜の香りなら、窓という窓、戸という戸を開け、世の中に向かって漂わせてあげればいい。窓という窓、戸という戸を閉め切って世の中におびえているわたしは、本当は蜜とは思っていないのだろう。
 本当って何? パパは本当に死んだの? 違う。パパは布団の中から語りかけている。血の気のない唇はもう開くことができないが、パパの声は聞こえてくるのだ。
「遺言状。一、拙者木立葉太郎が死したる後は、拙者の死体をゴミとして処理する事。一、ゴミに葬儀は無用也。一、ゴミに棺桶は無用也。一、ゴミに念仏は無用也。一、ゴミに着衣は無用也。拙者の身ぐるみ剥ぎ取ってゴミとして処理する事。以上、くれぐれも怠ることなきよう申し付くるもの也。平成十五年十月吉日。木立葉太郎(印)。木立実子殿」
声ではなく、文字なのだ。文字には声が詰まっている。パパのポケットに入っていた一册の手帳をパパの枕もとに広げ、三日四晩、その声を聞き取ろうと努めてきたわたしなのだ。
 目覚ましが鳴る。会社に行く時間なのだ。会社になど行っている場合ではないはずだが、夜になると目覚ましをセットしてしまうわたしだった。頭が痛いと三日も休んでしまったが、これ以上、仮病を使うことはできない。いや、仮病ではない。パパの遺言は、わたしの頭をガンガンと責めたてるものなのだ。
 添い寝をしたわたしの体がパパの布団から抜け出る。掛け布団は、ほとんど凹まなかった。手足を突き上げ獣のように死んでしまったパパの体は、掛け布団を高く持ち上げ、死臭のこもる空間を抱き締めているのだった。
 こもっていた死臭がわたしを追いかけてくる。追いかけられるわたしにとって死臭はもう蜜ではなく、追い剥ぎのようなものだった。パパへのいとしさ、パパへの悲しみは剥ぎ取られ、わたしの心の裸体は憎しみではち切れていた。
 床を踏みつけ、自分の部屋へ戻る。乱れたわたしの心を整えるように、カレンダーが整然と数字を並べていた。
 今日は何日?
 数字をたどり、ビリッと一枚、十月を破る。今日からは十一月――会社は休みの土曜日なのだ。日曜日が続き、月曜日は文化の日――何と三連休というありがたさである。
 カーテンの透き間から空を見上げる。青い空がわたしを抱いていた。よし、遊びに出かけよう。パパは勝手に腐っていけ!
 シャワーを浴び、死臭を流す。下着を取り替え、柿の実のデザインが編み込まれた思いっきり派手なワンピースを選んだ。ニットのノースリーブだ。木立実子は生きています。二つの腕をさらし、秋の光を反射して、実子はどこを歩くべきなのか? 考えは先へ送り、わたしはお化粧に集中した。
 いつもの出勤の朝と同じようである。わたしはどこで働くべきなのか? 考えは先へ送り、わたしはいつもお化粧に集中していたのだ。
 いつもの道の最初の信号は赤だった。赤でも青でも、わたしには関係ない。地下鉄の駅へ向かうためには、横断歩道を渡らずに、通り過ぎていけばいいのだ。
 それでいいの?
 立ち止まり、わたしはようやく考えた。勤めの道と同じ道を歩くなんて、情けないこと、この上ない。地下鉄よりは遠くなるが、横断歩道を渡った先には、東武東上線の駅があるのだ。
 信号が変わる。足が動いた。ローヒールのかかとがキツツキのように音をたて、わたしは歩き慣れない道を進んでいた。
 パパとママに連れられて、この道を歩いたことがある。小学校に入って初めて迎えた夏休みのことだった。電車に乗ったわたしは靴を脱ぎ、座席の上で膝を折って窓に向かうと、変化する風景に見入ったものだった。
 線路に沿って、コンクリートの建物が並んでいる。広告の文字が小学一年生のわたしの脳味噌を試すように、現われては消えていった。駅が近づくと広告は密集しはじめ、わたしの頭は痛くなるのだ。
 時間と共に、文字は点在するだけとなる。田んぼが現われ、遠くの団地は山に変わる。山は次第に迫ってきて、モルタルの民家だけがたたずむのだ。
 全ては変わる。パパがゴミに変わったとしても何の不思議もないはずなのに、わたしはパパを捨てることができないのだ。

 続いて「40代バンバンザイアットホームカウンセリングコーポレーション」の冒頭部を紹介します。小泉改革「以降」がおそらくは念頭に入れられたこの作品。本作の背景にある時代状況と同じものを引き受けている浅尾大輔の「家畜の朝」(『ブルーノート』所収)と並べて読んでみることをお勧めします。

ブルーシート

ブルーシート

40代バンバンザイアットホームカウンセリングコーポレーション(一) 向井豊昭


一つとせ ひどいぞ リストラ 人でなし


「パパ、遅いなア」
雪がまたつぶやいたさ。一人娘なんだよね。テレビには、毎夜おなじみの久米宏が映ってるよ。いつもなら、遅いって言えない時間帯なんだけどさ、今日は誕生日のパーティーやることになってるんだよね。今から四十年前の今日、パパが生まれたの。夜だったそうよ。そのせいか、パパの性格、暗いんだよね。同じ四十年前の今日、おいら、毬子も生まれました。真昼だったんだって。数時間早い、姉さん女房っていうわけなんです。真昼のような性格だって他人サマからはよく言われるけど、真昼にふさわしく生きようって、健気に生きてきただけなんだよね。顔で笑って心で泣いてって奴さ。もしかしたらパパの性格も、性格なんてもんじゃなく、夜の誕生にふさわしく生きようって心がけてきただけなのかもしれないよね。聞いてみよう。
 聞こうにも、当の本人、いないんだよね。何度も携帯にかけてみたけど、つながってくれないの。
 テーブルの真ん中の花瓶には、薄紅色の花をつけた山茶花の枝が投げ込まれてます。この花、おいらのほっぺとおんなじだよって言いたいけど、おいら、四十歳になったんだよね。ホラは、吹かない。
 この山茶花、さっき、この賃借マンションの表の植え込みから、チョキンチョキンって鋏を使っていただいてきたものなんだ。いや、盗んだってことになるのかな? おいらの連れ合い、法学部出身だから聞いたら分かるかもしれないけど、聞かない方がいいんだよね。答えられなかったら、かわいそうじゃん。彼、司法試験を何度も滑ってさ、おいらの勤めてた印刷会社に就職したんだもん。
 山茶花のかたわらにはデコレーションケーキの箱が並び、それを囲んだお皿の上では、フライドチキンも、えびの天ぷらも、冷えた姿をさらしてます。肉じゃがも、おでんも、みんな冷えちゃってるよ。みんな、おいらの手作りなんだぞ!
 自慢するほどの料理じゃないよね。でも、おいら、忙しい時間の中で作ったんだぜ。パソコンで内職してんだ。今日は早起きして午前中で仕事を片付け、午後からは料理に専念したっていうわけ。
 グ〜。
 ウフッ、雪のおなかが鳴ってるよ。
 グ〜。(ゴシック体)
 チョー豪快に鳴ったのはおいらのおなか。
「ワハハハハ」って二人で笑ったら、玄関のドアに吊るした鈴が忍び泣くように音をたてたさ。陰気だねえ。パパのお帰りだよ。
 廊下の明かりをつけ、雪が玄関に走ってく。
「パパ、お酒クサーイ!」
 雪の声が雷のようにとどろいた。おいらだって雷だよ。ブラウスの袖をまくり上げ、おいらは肩を揺さぶらせて玄関へ行ったさ。
「バッキャロー! 今、何時だと思ってんだよ!」
 パパったら、玄関に立ったまま、じっとおいらを見つめるんだよね。思い詰めた目。おいらにプロポーズした時の目とおんなじじゃん。
 あのころを語るには、パパよりも、純ちゃんって言った方がいいな。純一郎でもなければ純太郎でもない。彼の名前はただの純。小泉純一郎みたいに、ハッタリをかまして生きるには夾雑物が必要なんだけど、一も郎も混じってない無垢の純なのです。

 最後、「立花」の冒頭を紹介します。たぶん、従来文芸誌に発表された向井作品しかご存知ない人は驚くことと想います。
 ぜひ、知里幸恵の『アイヌ神謡集』と並べてお読み下さい。

アイヌ神謡集 (岩波文庫)

アイヌ神謡集 (岩波文庫)

六花 向井豊昭       


 長い体が風のような速さで走っていました。乳色の体に沿って、草色の縞がまっすぐについています。縞蛇の珍種のようでありました。
 左右に三本ずつの縞のうち、真ん中の太い一本にはたくさんの四角い穴が並び、透明な、硬い皮膜がはめ込まれています。皮膜を通して、呑み込まれた獲物の姿がたくさん見えました。
 蛙ではないようです。ねずみでもないようです。皮膚の色は多種多様で、色での判別はしかねました。
 実を言えば、皮膚は何重にもなっているのです。一番上の皮膚をはぎ、縞蛇の腹の中にズラリと掛けているのは、そこが暖か過ぎたからでした。縞蛇の血で暖かいわけがありません。ダンボウというもので暖かくなっているのでした。
 縞蛇に呑み込まれてしまったというのに、獲物たちはうろたえる風もありません。うろたえる力もなくなってしまったのでしょうか? 後肢を突き、上体を起こし、後ろへ向かってひっくり返る寸前なのです。
 危ない姿勢を支えているのは、背中に当てられた平べったい突起物でした。それは縞蛇の腹の中に無数の腫瘍のように突き出しているのです。
 ひっくり返る寸前なのに獲物たちは死んでいません。目の開かない獲物は、安らかに寝息をたてていました。


 それでは、どうぞ「幻視社」をご贔屓にお願い申し上げます。 
 なお、本号の成立には「笙野頼子ばかりどっと読む」の管理人Panza(id:Panza)さんの尽力によるところも大きいです。最後になりましたが、この場を借りてお礼を述べさせていただきます。