『ローズ・トゥ・ロード』新版、ファースト・インプレッション


ローズ・トゥ・ロード (ログインテーブルトークRPGシリーズ)

ローズ・トゥ・ロード (ログインテーブルトークRPGシリーズ)

 開いて、すぐにわかった。
 これは国産RPGが、前人未踏の領域に足を踏み入れたということを意味している。
 1984年、国産RPGの黎明期からの門倉さんの蓄積が――その一部にしろ――凝集され、投じられている。


 私は今までRPGについて複雑な思いを抱いていた。それはつまり、ファンタジーが有する豊穣なイメージそのものが、往々にして、疎外されているのではないかという懸念を有していたのである。
 数値的なゲームシステムによって省かれるものもあれば、反対に、私自身を含む参加者の勉強不足や認識の齟齬によって幻想性のダイナミズムが失われることに堪えられない、ということもままあった。
 恐ろしいことに、ファンタジーRPGというものは、ファンタジーと銘打っておきながら、システムのレベルにおいては、ロード・ダンセイニやフィオナ・マクラウド、ひいては『妖女サイベルの呼び声』すら満足に再現できないのである。
 例外は『深淵』と『ヒーローウォーズ』だろうか。『ドラゴン・ウォーリアーズ』でも似た感じのシナリオをやったことはある。私は『深淵』から多くを学び、ささやかながら『ウォーハンマーRPG』のリプレイを書くときに活かすことができた(ちなみに自分が関わっていないタイトルだと、国産RPGのオールタイムベストは、『深淵』、『墜落世界』、『ハイパーT&T』だ)。


 もちろん私は『D&D』や『ウォーハンマーRPG』の翻訳者だし、『ガンドッグゼロ』にも関わっている。当然それらの作品に特別な愛着を持っている。
 だがこれらのシステムとは、『ローズ・トゥ・ロード』のようにならないことで、自らの持ち味を引き出していく方法を選んだ。方向性がまったく違うのだ。


 今回の『ローズ・トゥ・ロード』が描き出しているのは、今までRPGが選択してこなかった方法だ。


 『D&D』や『ウォーハンマーRPG』は(土台としての幻想性を創造するのではなく) あくまでも精緻に設計された幻想性の上に伽藍を打ち立てていく方法を選択した。それはRPGにしかできない物語スタイルだった。だが同時に、物語世界における「人間」の存在なしには成り立たないスタイルだったといってよい。
 幻想性というのは、とどのつまりは「人間」を排した世界のことである。人間が造り出す「意味」というものが成り立つ以前の世界こそが幻想性の根幹なのだ(だからバロウズが体現したように、ドラッグは人間性を破壊しつつ、幻想性へと接近する)。


 言葉から「意味」が生まれるまでの過程を、『ローズ・トゥ・ロード』は主題としている。
 トールキンの言う「準創造」、つまり創造の言葉を扱ったゲームだ。



 かつて、季刊「R・P・G」4号に「村上春樹RPG」について書いたことがある。これは本当は「大江健三郎RPG」について語るつもりだった。
 『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドRPGではなく、『M/Tと森のフシギの物語』RPGについて語りたかった。

 だが、『ローズ・トゥ・ロード』の新版を読んだ今、私の理想は間違っていなかったと、自信をもって宣言することができる。そう、原理的には、『ローズ・トゥ・ロード』のシステムによって、『フィネガンズ・ウェイクRPGをプレイすることすら可能となったのだ。


 この本の試みはRPGはおろか、ゲーム史、ひいては文学史の中で真に新しく、ほとんど革命に近い。


 むろん、このシステムは日本語への言語依存が極めて強い。
 だが、理論的には、この本はゲール語で書かれるべきだったと思う。

 
 私はイェイツやフィオナ・マクラウドの文法で『ローズ』を遊ぶことを夢見る。
 フィネガンの夜宴が生まれる現場へ立ち会うことを夢見る。
 折口信夫山尾悠子の世界をRPGで体験することを夢見る。
 バベルの図書館や妖精文庫を生き直すことを夢見る。


 そしてそこから、オールド・ワールドやフォーゴトン・レルムをこのルールで遊ぶことを夢見る。『アルス・マギカ』や『ペンドラゴン』と組み合わせても面白いだろう。

 
 これは第一歩だ。だが、ここからは無限の広がりがある。



 何言っているかわからない人は、『Role&Roll』で連載されている「魔法イメージ探訪記」を思い出してほしい。
 あの連載が、そのままこのゲームではサプリメントとして使えてしまうのだ。ぜひとも単行本を!
 あるいは『魔法使いディノン』が表現できるシステムだと言えばいいか。


 いや、興奮さめやらない。
 岡和田は、新版『ローズ・トゥ・ロード』の方向性を全力で応援します。