バルガス=リョサがノーベル文学賞に輝いたことに狂喜乱舞している岡和田でございます。
私が偏愛する『フリアとシナリオライター』、『パンタレオン大尉と女たち』については、今後じっくり語る機会もあるでしょう。
今回はラテンアメリカの某国に在住し、興味深いノートを発表されている「さぼさし」さんの「バルガス=リョサのなかの世界的同時性」を、ご本人の許可をいただいたので、こちらにご紹介させていただきます。
とくとご覧下さい。
世界的同時性、などというとあまりにも響きが空々しく耳に伝わるかもしれない。
しかしながらラテンアメリカのモノ書きたちは、亜地域という葛藤に悩みつつ、そしてそれを意識するしないにかかわらず、欧米世界と対峙してきた(模倣してきたと語っても大げさではない)。
つまり結果として、欧米世界で生まれてきた意識(またはより正確に言うと、言語ということか)を自分たちの亜地域に当てはめてきた。
亜地域というのはコンプレックスの塊である。
しかしときとして、欧米で発展してきた言語(技術)が亜地域にて過剰な繁茂をみせるときがありうる。
この過剰な繁茂というのは、たとえばあるモノ書きにとっては歪なバロック性(冗語か?)であったり、物による言葉への浸蝕だったりする。
いや、小難しいことを振り回していると耳が長細くなってしまいそうだから、このへんで切り上げるが。
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もう半年もまえからバルガス=ジョサの『ラ・カテドラルでの対話』を読み続けている。
これについてはすでに数回、触れたことがあると思う。
かれの初期長編群は、その難解さで知られている。
『都会と犬っころ』にしろ『緑の家』にしろ、十年以上もまえにスペイン語原テキストと邦訳本とを照らし合わせてようやく読み終えることができたのだった。
『フリアとシナリオライター』に至ってはこれも十年もまえに読んだものだが、スペイン語テキストだけで読み進めていったので、人物関係が錯綜しているだけに、その内容がどこまでつかめたか大いに疑わしい。
そこで『ラ・カテドラルでの対話』である。
はじめはスペイン語テキストだけで読んで、息がぜいぜいしたほどだったが、やがて邦訳本を所持していることを思い出し、利用しはじめた。
それでもやはり難解さは飛びぬけているのだが。
さてここまではすべて前置きのようなもの。
じつは一ヶ月以上、読みが第一部八章にて停まっていたのである。
それはアンリ・バルビューズの名が出ていたからである。
このフランス人物書き、はじめは『地獄』のような人間性の深淵をえぐるようなことを綴っていたが、やがて社会正義、プロレタリア系の物書きとして生成発展していく。
このバルビューズ、ニホン近代文学史においても忘れられない存在である。
ニホンのプロレタリア文学の嚆矢としての雑誌『種蒔く人』(1921年)は、このフランス人の影響下に成立した。
『ラ・カテドラルでの対話』でのこのバルビューズは、ペルー独裁下での学生運動、労働者運動、コミュニズム運動を暗示する、影響するものとして触れられている。
ニホンにおいてもプロレタリア運動が台頭してこようとしたときにバルビューズが言及される。
時差があるにしても、世界的同時性といったものをイメージさせる。
するとニホンとペルーとのこの時差はどこから来るのか、社会の成熟度、あるいは生産力と生産様式との矛盾の成熟度こそが異なっているからなのか。
もう一歩突っ込むことを許されるならば、もしニホンのほうが進んでいてペルーのほうが送れていたのだとしたら、結果的にペルーのほうが、より包括的かつ深度にみちたナラティヴが生まれ得たのはいったいどんな理由なのか。
そんなことをあれこれ思い描いていたゆえに『ラ・カテドラルでの対話』の読解に手間取り、中断してしまったのだ。
おなじ頁にはマリアッテギやらバジェホなど、ペルーを代表するオリジナルな思想家、詩人の名があがっている。
以後、バルガス=ジョサは右よりの姿勢を深めていき、それを批判するのは容易なのだが、いかにペルーの現実に迫っていたか、この『ラ・カテドラルでの対話』を読んでいるとそんなことを思い起こされる。
この作家を通して、ラテンアメリカの作家の栄光と矛盾についてあれこれ考えてしまう。
(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1598003585&owner_id=1299833&comment_count=4)、さぼさし
- 作者: バルガス=ジョサ,桑名一博,野谷文昭
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