ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』が発売されました

 ジュノ・ディアスの小説『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』が発売されました。

オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス)

オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス)

 本作がどのような小説かという点について、詳しくは以下の記事をご覧下さい。SF、RPG、そして本作の重要な登場人物(?)であるラファエル・トルヒーヨについて解説しています。

http://analoggamestudies.seesaa.net/article/187896045.html

 うるさくなるので紹介文内での言及は避けておりますが、本作の監修的な作業と割注の作成は、一部を除き私が担当させていただいております。先述の記事の固有名は、書籍内にて、ほぼすべて解説がされていますから、よろしければそちらを御覧ください。
 訳者の都甲幸治さんにはあとがきで分不相応なお言葉を賜り、ただ恐縮しています。ありがとうございました。


 
 ほかにこの場で語るべきことがあるとしたら、この作業にはひとつの願いを込めたということでしょうか(以下、ネタバレ防止の意味もあり、やや抽象性を上げて語っております)。

 どのような願いかというとそれは、本書で提示される諸々の作品に内在する、作品が創りだした固有のもの――RPGならばそのタイトル独自の“感覚”――を、少しでも掬い上げるようにしたいと考えていたということです。少なくとも、作品の固有名には意味があることをお伝えしたいと考えました。

 もともと、私は本書のような多量に固有名詞が登場する、いわばバロック的な体裁の小説を好んで受容してきました。一例を出せば、本書には登場しませんが、10代後半で触れたユイスマンスの『さかしま』が生み出す人工の楽園には言い知れぬ感銘を受けたものです。それは作内で提示されるデカダンスへの憧憬というよりも、主人公デ・ゼッサントの生き様とデカダンスが見事に符号し、そこで完結しながらも、深く自己の世界にもぐりながら、何かしらの批評性を有していることが感じられたからです。

さかしま (河出文庫)

さかしま (河出文庫)

 『さかしま』は、あのような内容でありながら、決して世間から、そして社会から、本当の意味で背を向けていたわけではないのではないか。むしろデ・ゼッサントは借り物を集めて空間を演出し、強大な世界と対峙しようとたのではないか。そう、私は考えています。

 しかし一方で、『さかしま』には、トルヒーヨのような神話的な巨悪が介在する余地はありません。いやある意味で、トルヒーヨは人工楽園を創ったデ・ゼッサントにほかならない、とすら思えます。ここに、一つのねじれが生じていることにお気づきでしょうか。
 本来ならば、『さかしま』のデ・ゼッサントに対応する存在は、オスカー・ワオその人でなければならないはず。このことはトルヒーヨ的な独我論の世界とは、異なる未来を希求する動きだったのではないかと思います。
 だからこそ、オスカーの世界観としてのSFやRPGをもって、トルヒーヨは戯画化されざるをえない。

 オスカーは、あまりにも作品を愛するあまり、作品が創りだした無数の小宇宙の内部に入り込みます。
 自分の「実存」を全身で投企し、その世界に参与しようとするわけです。その結果、彼は小宇宙の外部と混交せざるをえなくなります。言い換えれば、彼が愛したフィクションは、単なる幼児的な願望の充足に終わらず、受容者に他者との関わりを求める類のものが数多く含まれているからです。真のSFとはそういうものではないかと、私は考えています(オスカーがオクタヴィア・バトラーを読む男だったということは、ここで強調しておく意味があるでしょう)。
 彼はSFの世界に深くもぐりながら、その深みを維持しつつ、狭い自己の人工楽園を打破しようとしたのではないでしょうか。
 テクストから見ても、自然主義をベースにしながら、登場する固有名詞は、人工楽園の風景以上の文脈を導き出す流れが明らかに存在していると思います。それは言い換えれば、それは無数の固有名詞の向こうに「顔」を見出す鋭意、すなわち「顔」の複数性の提示にほかならないのかもしれません。
 彼は自分の生に対する無名の慰撫ではなく、固有名詞の向こうから、生きる意味そのものを受け取ろうとしており、それが本作の結末に結びつきます。
 どうか、オスカーは愛を求めて趣味を捨てた、などと本作を読まないでください。オスカーは、フィクションを通じて愛と人生を、世界を学習していたのです。
 私たちは、一千万人ものトルヒーヨにもなることができる、一千万人のオスカー・ワオなのです。

 作業にあたっては、固有名詞の向こうからなんとか「顔」を引き出すべくつとめました。かつて私が「青木淳悟――ネオリベ時代の新しい小説(ヌーヴォー・ロマン)」で論じたことを、ささやかながら実践させていただいたつもりです。

「唱えよ、友。そしてはいれ」

 この言葉にまつわるエピソードの意味を、作業を終えた今でも考えています。