海外のわけのわからないものより身近なサブカルチャーを褒めろ?

 「海外のわけわからないものを紹介する/論じるより、(そのリソースを使って)身近のサブカルチャーを褒めるべきだ」という主張が、さまざまなジャンルにおいてなされることがある。
 しかし、私は昔からこうした考えにはひどく懐疑的だ。

 そもそも私たちの知識や見識はひどく偏狭なものである。輸入の絶えた文化が自閉して滅びるということは、少し調べてみればわかるはずだし、とすれば、言語、国家、そして習俗といった障壁に阻まれている海外作品という「他者」*1と共存するのがまず先にあるべきだろう。
 身近なサブカルチャーは――身近であるがゆえに――本質的に同時代において閉じられたものである。それらをきちんと論じ、外部へと開いていく作業が重要なのは言うまでもないが、それは自ら資格があると任じる者が適切な方法をもって行なえばよいことであり、海外作品を「わけのわからないもの」として遠ざけ、軽視してよい理由にはならない。あえて言おう、「海外のわけのわからないもの」という規定はそれ自体が退行であり、知性への愚弄にほかならない。


 考えてもみたまえ。こうした傾向が進むとどうなるか。
 文学にしろ、RPGにしろ、映画にしろ、音楽にしろ、行き過ぎるとこうした事態は「そもそも海外作品を受容しているだけで偉ぶっている」といった偏見が恥ずかしげもなく投げかけられるような、言語道断なレベルにまでやすやすと堕ちる。固有名詞の羅列以上のものとして、批評的言辞が受け止められなくなる。こうした状況を是認したが最後、新たな言説は芽生えなくなり、知性は死を迎えてしまう。


 だから、まずは異文化を所与のものとして読むこと。まずはその姿勢を堅持せねばならない。
 そのうえで、言語、国家、あるいは習俗といった日本という国に生きている限り、どこか共感を拒む「他者」であり続ける文化的諸要素についての障壁を成立させている深淵が奈辺にあるのかを意識すること。最低限の出発点として、私たちに求められるのはかような姿勢だ。


 若い書き手の多くは、自らの愛する身近のサブカルチャーが世間的に価値がなく、それゆえに意義があると、価値の剥奪とフェティシズム的な偏愛を並行させようとする。
 しかし、そうした後ろ向きの姿勢が導くものは、批評性を欠いた馴れ合いの言語、「俺の気持ちいいことだけ話せ」という甘えに過ぎない。畢竟、自らの小さな「セカイ」を守りたいという、ナルシシズムの裏返しに終わるものだ。


 いまの状況において必要な「読み」というものは、そうした狭いパースペクティヴとはまるで異なるものだ。「他者」との隔たりを認識しつつ、「他者」が目指すものを、可能な限り自分と共鳴するよう、解釈し直す作業である。
 ゆえに私は声を大にして言おう。「海外のわけわからないものを紹介する/論じるより、身近のサブカルチャーを見つめ直すべきだ」という主張は間違っている。これらの作業に、比較や優劣は本質的につけられない。そのうえで考えてみよう。「海外のわけのわからないもの」と「身近なサブカルチャー」、現状、どちらが多く、私たちは話題にしているのだろうか。私たちが目を背けているのは、はたしてどちらだろうか。いや、そもそも私たちが「サブカルチャー」とシニカルに唇の端を歪めて受容しているものは、蔑称としての「サブカルチャー」などという狭いパースペクティヴしか持ち得ないものなのか、その点を改めて問い直す必要もあるのではないか*2

 
 何度でも言うが、海外の文化を、その表層において、「わけのわからないもの」と遠ざける姿勢がもたらすものは、知性の後退であり、文化の自閉である。
 少なくとも、創作者、あるいは批評的な言説に携わる者は、こうした弊を避けるべく努める必要があるだろう。


追記:ブックマークコメントを見たら実に恥ずかしい内容があったので、本エントリで批判している症例の一種として晒させていただく。

 「「海外作品を受容しているだけで偉ぶっている」「比較や優劣は本質的につけられない」といいつつ、「海外の文化を(中略)と遠ざける姿勢がもたらすものは、知性の後退であり、文化の自閉」といっているのがね」

 だそうだが、前から順番に読んでいけばわかるものを理解できない、こういうコメントの姿勢こそが、おそらくドメスティックな文脈に耽溺しているがゆえに前後の文脈を理解する能力を欠くようになった、わかりやすい実例だろう。

*1:他者性とはやや大がかりな言葉であり、厄介な議論を懐胎するが、そもそも本エッセーは哲学論文ではなく、難しいことを言っているわけではないので、常識的な解釈をしていただければありがたい

*2:私は創作活動や批評活動において、可能な限り、そのあたりへの批評性を盛り込むようにしているつもりである