山城むつみ『連続する問題』について

 去年の12月、総選挙が終わった際、それに絶望して、このように書き付けたことがあります。

 この状況でいちばん読まれるべきは、山城むつみの『転形期と思考』ではないかと思う。星野智幸の書評が鋭いが、つまりこの批評で書き手が強いられているような方法が、言説を紡ぐうえでの大前提となるだろう、ということ。
 山城むつみの 『転形期と思考』を読むうえで重要なのは、そこで論じられている中野重治の「村の家」や『斎藤茂吉ノート』が、そもそも厳しい言論弾圧、大政翼賛的パラダイムの中で書かれたものであるということ。だから、その言葉を実直に追いかけること、そして「飛躍」に、強い批評性が生じる。

転形期と思考

転形期と思考

 ここで書いたことは間違いではなかったと思わされるような状況が、現在も持続しています。



 山城むつみさんから、新刊『連続する問題』をご恵贈いただきました。

連続する問題

連続する問題

 私が山城むつみを読むようになった出発点は、10年前に、ある作家から「小林批評のクリティカル・ポイント」を熱烈に薦めていただいたことによります。実際に読んでみて驚いたので、その時から「山城むつみ」という固有名を意識し、目につくたびに読み続けてきました。
 そもそもの出発点である山城むつみのデビュー論文「小林批評のクリティカル・ポイント」は、小林秀雄が『白痴』を論じることができず、『白痴』を書き写したという逸話を軸に、「読む」ことと「書く」ことの臨界点、「致命的な失語」を論じたものでしたが、このことは「生きる」姿勢にも密着に結びつくものなのです。
 同作が収められた『文学のプログラム』は、論じられる対象の固有名――小林秀雄保田與重郎――をカッコに入れて読むことをも読者に要請し、独立してその衝迫を感じることを求める稀有な批評です。わかりやすく言えば、同書の効能は「無人島や外国に、日本の批評を一冊持って行くとしたら?」という問いへの回答に近いものがあるでしょう。
 「致命的な失語」から出発することは、裸一貫で状況に立ち向かうということにほかなりません。そうした姿勢は、昨今、ひとえに「古臭」く「時代遅れ」のものだと喧伝されてきましたが、実際のところ人間が言葉を発するにあたって、誰しもが裸一貫で言葉を発するための覚悟を持たざるをえない立場に、追いやられているといえるのではないでしょうか。 
文学のプログラム (講談社文芸文庫)

文学のプログラム (講談社文芸文庫)

 ただ愚直に、血を吐くように書かれた、鉄を穿つような言葉があるとします。こうした言葉を、継続して紡ぎ続ける膂力、そして覚悟は、並大抵のものではありません。
 「新潮」の「クロスロード」「連続するコラム」を母体にした『連続する問題』も、著者はいちど本にする話を断ったいいます。本書をひもとけば、その理由もよくわかります。
 しかし、たとえそうであっても、時評の体裁をもって書かれた硬質な言語が一冊にまとめられた意義は大きいと言えましょう。
 例えば『連続する問題』の冒頭では年末ジャンボ宝くじの話題から「確率論」が語られます。いま、読み直すとこの「確率論」の話は、二年前の”あの日”以後、繰り返し語り直されてきた「確率」の暴力性へに対する、真摯な思弁としても読めてしまう。そうした”誤読”を、この本はどこまでも許容するのです。


※確率論の話は、こちらで無料で読めるようです。
http://cork.mu.s3.amazonaws.com/wp/wp-content/uploads/2013/03/9ad42bc9f8eba886aa881575a89994b0.pdf


 思い返せば、今や、批評のモードにおいては「読む」ことの重要性というものが、ほとんど顧みられなくなっています。煽りまくってある一定の層にウケそうなトピックを抽出すれば、それでよしとされるのです。しかし、こうした世流に身を任せるのとは、別の方法もあります。『連続する問題』は、時評においても「読む」視線の彫琢は可能だと示しています。
 雑駁に書き散らしたように見せている部分もありますが、それは仕掛けにすぎません。生活者の視点から、ここ10年の批評的トピックを浮かび上げることで、受容者の「クラスタ」なる謎の基準に見合うよう問題と応答がズタズタに切り裂かれることを回避する、ということが目されているのです。
 ところで、そろそろ書いてもいいと思うのですが、「向井豊昭の闘争」連載の際に、具体的に「この人には届いてほしい」と思っていた批評家がひとり、いました。
 面識はなく、あえて本論では言及・引用等もしていません。その人の仕事と比べたら、おこがましい気がして献本すらできませんでした。それが「山城むつみ」という批評家だったのです。
 そもそも批評というものはコンテクストから逃れられず、その意味で“不潔”なものでもあります。2000年以降、この“不潔さ”を捨象することは、ますます難しくなっています。石和義之が「メタポゾン」8号の「空気と実存」で論じたように、キェルケゴール的な「単独者」の言葉は単なる「KY」だとみなされてしまうようになりました。そのような状況で書き続けられた山城批評は、「単独者」からの果敢な反撃だといえるでしょう。そして、そもそも「向井豊昭」が模索したのは、「単独者」の「連帯」は可能か、という問題にほかならなかったのです。
 このたび、山城むつみさんが「向井豊昭の闘争」を読んで下さって、その縁で新著『連続する問題』の献本先に当方を選んでいただいたことに、「投瓶通信」が届いたような手応えを感じています。仕事を続けてよかったと。
 幸い、ある新聞から『連続する問題』についての書評依頼をいただいておりますので、近々、皆さんに『連続する問題』について、より凝集的な批評をお目にかけることができると思います。ご期待ください。