「Genkai」Vol.3の「あとがき「「伊藤計劃以後」と「継承」の問題――宮内悠介『ヨハネスブルグの天使たち』を中心に」」が再掲されました。

 『ポストヒューマニティーズ 伊藤計劃以後のSF』を刊行し、早いもので一年近くが経ちましたが、状況は刻一刻と悪くなっていると思います。そこで昨年刊行された同人誌「Genkai」Vol.3(2013年11月、完売)に掲載された「あとがき「「伊藤計劃以後」と「継承」の問題――宮内悠介『ヨハネスブルグの天使たち』を中心に」」を、こちらに再掲いたします。「「伊藤計劃以後」と「継承」の問題」および「「想像力」の脱政治化に抗して――『空白の120ヘクタール』『水晶内精度』『妻の帝国』」については、『「世界内戦」とわずかな希望 伊藤計劃・SF・現代文学』で読めます。

ポストヒューマニティーズ――伊藤計劃以後のSF

ポストヒューマニティーズ――伊藤計劃以後のSF

季刊メタポゾン 第7号(2012年 孟秋)

季刊メタポゾン 第7号(2012年 孟秋)

「世界内戦」とわずかな希望〜伊藤計劃・SF・現代文学 (TH Series ADVANCED)

「世界内戦」とわずかな希望〜伊藤計劃・SF・現代文学 (TH Series ADVANCED)


あとがき「「伊藤計劃以後」と「継承」の問題――宮内悠介『ヨハネスブルグの天使たち』を中心に」


 岡和田晃


 この冊子は二〇一三年一一月四日の文学フリマで配布されるものだが、とすると『ポストヒューマニティーズ 伊藤計劃以後のSF』の刊行から三ヶ月余りが経過したことになる。その間、当方はスピンオフとして「SF・評論入門3「伊藤計劃以後」とハイ・ファンタジーの危機」(http://www.n11books.com/archives/30455265.html)を寄稿し、二〇一三年十月五日には、ジュンク堂書店池袋本店でのトークイベント「未来を産出(デリヴァリ)するために〜新しい人間、新しいSF〜」に出演するなど、現代SFそして社会にいかなる変容が訪れているのかを、読者の皆さまと一緒に考えてきた。

 「「伊藤計劃以後」とハイ・ファンタジーの危機」は、Book Newsの「はてブ人気の記事」にランクインし(一〇月一三日現在)、また「未来を産出(デリヴァリ)するために」は、来場者が定員を越え、急遽、座席が増やされるなどの盛況を見せた。

 「「伊藤計劃以後」と「継承」の問題」は、私が持続的に批評の主題としている「“想像力”の脱政治化」の問題と、正面から向き合うことを試みたものだ。この主題の詳細は、「「想像力」の脱政治化に抗して――『空白の120ヘクタール』『水晶内精度』『妻の帝国』」(「季刊メタポゾン」七号、メタポゾン/寿郎社)をあわせて参照いただければ、より理解が深まるだろう。が、「「伊藤計劃以後」と「継承」の問題」でも、必要にして充分な説明は行なっている。にもかかわらず、この問題について、性急かつ短絡的な解釈をぶつけられる事態が一度ならず起きたのは、ひとえに遺憾だと言わざるをえない。

 未読の方に向けてあらかじめお断りしておけば、同稿では、二つのSF作品を批判している。とはいえ原稿自体は、批判のための批判を目的としたものではなく、きちんと文脈は明記されている。にもかかわらず、『ポストヒューマニティーズ』の拙稿をめぐる解釈は、しばしば、「二つのSF作品の批判」のみが独り歩きし、露悪的にクローズアップされてきた。むろんそうした事態は、特定の個人が一人で創り出したものではない。だが、ここでいちいち名は挙げないものの、執筆者としては、そのような印象を拡散させた者らに対し、この場での応答として強く抗議しておきたい。君たちは、それでいいのかと。

 そもそもインターネット上で匿名の書き手による批判の名を借りた誹謗中傷が猖獗を極めている現状において、批判のための批判を行なう意義がどこにあるのか。何より求められるのは――例えば“「「想像力」の脱政治化」についての考察”を“「政治性」や「萌え」の有無で作品をジャッジせよとの主張”、“特定の作家を攻撃すること、そのものを目的としているという主張”へ短絡的に還元しないような――ごくごく基礎的なリテラシーの獲得、いやそれ以前に求められる、堪え性の保持ではなかろうか。

 SF専門誌に「日本SFの夏」という副題が付けられるほど、日本SFは隆盛を極めている。少なからず、そう言われている。日本SFの前線で戦う当事者として、私もそれを信じたい。『ポストヒューマニティーズ』のような批評の書が流通し、致命的な批判の対象となることなく受け入れられたことが、その何よりの証左であろう。

 だが一方で、インターネットを中心とした言論空間は熟慮を欠いた短絡化の一途をたどり、排外主義的な言説の存在感は日に日に増している。商業的に流通する新作SFは、少なからず、読者の欲望へ素朴に奉仕する「共感作文」と化しつつある。

 あなたは、絶望するだろうか? それともシニカルに唇の端を歪めて状況に追随する道を選ぶか? あるいは茨の道を掻き分けて、批評的にオルタナティヴを模索するのか?

 私が思う採るべき倫理は、「「伊藤計劃以後」と「継承」の問題」に書いておいた。あとは、あなた次第。これ以上、贅言を費やすつもりもないのだが、希望を、一つ書き添えておこう。

 「未来を産出(デリヴァリ)するために」の終了後、登壇者だった私がイベント中に表明した“SFがしばしば、社会科学的な現実を無視して自然科学を扱うことへの危機意識”に、自然科学はプロパガンダの道具であってはならないと、熱く同意のコメントを寄せてくれた人がいた。驚いたことに、彼は、現役の自然科学者だった。