「SFマガジン」2012年7月号「特集:スチームパンク・レボリューション」レビュー

※本稿は、「限界研blog」で2012年6月20日に公開されたものの再掲である。
 私は同会についてはすでに退会済であるが、書いた記事について有効性は失われていないものと判断した次第である。


SFマガジン」2012年7月号「特集:スチームパンク・レボリューション」

ネオ・スチームパンク・ムーヴメントの襲来!


評者:岡和田晃


 SFの停滞、「冬の時代」が叫ばれてから、もう、どれくらいの時間が経過しただろう。
 だが、その間に海の向こうでは、新しいムーヴメントが起きていた。蒸気の時代への郷愁をエネルギーに換えた、スチームパンクの最新形、ネオ・スチームパンク・ムーヴメントである。
 「スチームパンクってそもそも何なの?」という定義論は、ネオ・スチームパンク・ムーヴメントの前では、あまり意味を持たない。飛行船であれ、魔列車であれ、怪しげな疑似科学であれ、あなたが「スチームパンク」という言葉から連想したもろもろの要素を、ネオ・スチームパンク・ムーヴメントは積極的に肯定し、すべて貪欲に飲み込んでゆくからだ。


 「SFマガジン」2012年7月号は「特集:スチームパンク・レボリューション」と題し――シアトルを中心に勃興している――このネオ・スチームパンク・ムーヴメントについて大々的な紹介を行なっている。

S-Fマガジン 2012年 07月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2012年 07月号 [雑誌]

  • 発売日: 2012/05/25
  • メディア: 雑誌
 この特集は近年「SFマガジン」で組まれた特集のなかでも、格段にコンセプチュアルだ。芯となる何かが、間違いなく“ある”。その芯は誰もが半ば掴んではいるものの、誰もが半ばは模索している途中でもあるのが面白い。そうした欠乏感がジャンル勃興期特有の熱気を生み、感染者を飛躍的に増やしていく。筆者のメイン・フィールドの一つであるRPGの世界でも、英語圏を見てみれば、スチームパンクと銘打った新作はとても多い。


 だがネオ・スチームパンク・ムーヴメントは、何よりもまず、スチームパンクを知らない子どもたちがつくったスチームパンクだということを忘れてはならない。ネオ・スチームパンクの読者の多くは、スチームパンクの原典を知らない。彼らは、『悪魔の機械』(K・W・ジーター)も、『リバイアサン』(J・P・ブレイロック)も、『アヌビスの門』(ティム・パワーズ)も読んでいない。いわんや――サイバーパンク・ムーヴメントの流れで産業革命以降のテクノロジーを再考した――『ディファレンス・エンジン』(ウィリアム・ギブスンブルース・スターリング)をや。


 つまり読者は、ネオ・スチームパンクを徹底してファッションとして受容している。根っこにあるのは、映像文化だ。それは映画『ワイルド・ワイルド・ウェスト』であったり、デジタルゲームの『ファイナル・ファンタジー?』であったりする。筆者もほぼ、リアルタイムでこの2作を受容したが、そこから生まれたというネオ・スチームパンク作品の色彩的な豊穣さに――原典をやすやす超えているのではないかと――正直、驚愕を禁じ得ない。


 ある作品群をジャンルというフレームで語る意味は、歴史を味方につけられることだ。これまで何が書かれてきて、これから何が書かれたら最も意義があるのかは、歴史という名の過去を参照しなければわからない。にもかかわらず、ネオ・スチームパンクは歴史を拒否してきた。そんなものが、作品として面白いものになるはずがないじゃないか!


 ……ところが驚くべきことに、惹き込まれるのだ。


 作品の現物にあたると一目瞭然だが、歴史を否定しているから面白いのではなかった。この活力を少しでもポジティヴな形に替えようと、歴史を知っていた力ある作家たちが、続々とこの分野へ参入してきて、それが潜在的な顧客層、つまり飢餓感に満ちた――自分にとっての「黄金の書」を探している――読者と幸福な邂逅を果たしたのである。こうした邂逅が、独自の訴求力を生み出したのだろう。つまり、面白いものを受け入れる潜在的な「体力」を、英語圏スチームパンク・コミュニティは保持していたのである。これは、単に大衆文化論の括りだけで捉えられる話ではない。


 「SFマガジン」のネオ・スチームパンク特集では、18〜19世紀英文学の博士号を有したシオドラ・ゴス、ヘブライ語と英語で創作活動を行なうイスラエル生まれのラヴィ・ティドハー、アステカ神話の畏るべき相貌を形にしたアリエット・ドボダールといった才能による果敢なテクスト的冒険が紹介されている。そして彼らの読者は屈託なしに、作家たちの試みを受け入れることができているのだ。おそらく、海の向こうでは、ネオ・スチームパンクという限りなく“自由な”フィールドにおいて、新たな“出逢い”が多々生まれているに違いない。日本の文芸シーンにおいて、これと似た活況というのは、残念ながらあまり例が思い浮かばない。


 ネオ・スチームパンク・ムーヴメントを日本で中心的に紹介しているのは、翻訳家の小川隆氏だ。
 彼が主導している翻訳家集団「26 to 50」のウェブサイトでは、ネオ・スチームパンク・ムーヴメントの総体が紹介されている。80年代のサイバーパンク・ムーヴメントの代表的な作家であるブルース・スターリング作品をいち早く日本に紹介したアンテナが、ここでも遺憾なくその感度を発揮している。まずは、音楽としてのスチームパンクを紹介する下記の座談会を見てほしい。


座談会「スチームパンク・ミュージックをめぐって」


 SFとその周辺の文学作品を紹介するウェブログ「異色な物語その他の物語」の管理人「さあのうず」氏は、「ビジュアル重視の分、かえって音楽的には何でもアリで音楽的には素人みたいな人もいっぱいいてジャンル勃興時のカオスな面白さにあふれてますね」と、この座談会で紹介されたスチームパンク・ミュージックを評している。
 さあのうず氏は、そのうえで「80年代残党組で大好きなThomas Dolbyが混じってるのにウケましたねー。」とも述べている。
 氏によれば、Thomas Dolbyはもともと80年代からスチームパンクを予見したような曲やアルバムジャケットのセンスを発揮していた。先駆的というよりは、根っからのスチームパンク好きとして、意識してスチームパンク風のマッド・サイエンティストを演じていたのがThomas Dolbyの特徴とのことだ。

 スチームパンクを知らない子どもたちは、スチームパンク的なものをファッションとしてまとうだけではなく、積極的に別世界を構築し始めている。その動きに、歴史を知るものがコラボレートし、新たな何かを生み出していく。とりわけ興味深いのは、共有する世界観をなんとか“参加型”のものにしようとしていることだ。その展開は、スチームパンク・ミュージックから、スチームパンク風お料理本まで、自在な展開をなしている。現在、熱い注目を集めているAlternative Reality Game(代替現実ゲーム)とも縁が深いだろう。


 ここで足を停め、ネオ・スチームパンク・ムーヴメントの発火源はシアトルであるということについて、少し考えてみたい。シアトルといえば、なんといってもグランジ・ロックの故郷として名高い。
 グランジ・ロックの代表的バンドといえば、ニルヴァーナだ。ニルヴァーナのヴォーカルであるカート・コバーンは、シアトルのアンダーグラウンドシーンでハードコアロックを吸収し、血と泥とドラッグに塗れながら、ヒッピーと見紛うようなヨレヨレのネルシャツと小汚いジーンズを履きつぶし、ボロボロの魂を吐き出すようにして、自らの生き様を3枚のアルバムに叩きつけた。ほとんどのライブでは、まともな演奏などすることなしに、悲鳴に近い形でエモーションを絞り出し、中には客席にダイブして殴りあったりしているものすらある。

 ニルヴァーナが示したようなグランジ・ロックの反骨精神と、ネオ・スチームパンク・ムーヴメントは、一見、似ても似つかないように見える。むしろネオ・スチームパンクは、徹底した保守反動として、ヴィクトリア朝の礼儀作法であったり、ゴシック小説的ガジェットの洗練であったり……郷愁とともに、古式ゆかしい“礼儀正しさ”が目指されているようにも見えるからだ。そして、その制度には、徹底して“思想”が欠落している。こうした思想性の欠如は、ネオ・スチームパンクを牽引する作家二人(シェリー・プリースト、ゲイル・キャリガー)のインタビューからも特徴的だ。


 彼女たちはヴィクトリア朝文化を専門に学んだことには言及しても、何を学んだかには特に深入りせず、ムーヴメントの商業的事情をいささか偽悪的に語ってみせる。
 あたかも彼女たちの読者は彼女たちのインタビューが掲載される雑誌など読まないと思っているかのようだが……実のところ、それは一種の戦略なのではないか。


 シェリー・プリーストは学生時代に“ゴス”だったと告白している。このことをヒントに考えたい。
 スチームパンク・ミュージックの映像を見れば、ネオ・スチームパンク・ムーヴメントのヴィジュアルには、明らかにゴシック・カルチャーの残滓がうかがえる。ネオ・スチームパンクとゴシック・カルチャーは、根っこは同じものなのだ。ならばそこから、再帰的にグランジ・ロック的な反骨精神が浮かび上がる可能性もあるのではないか。つまり……。


 ネオ・スチームパンクという名の“ファンタジー”から、ネオ・スチーム“パンク”へ。
 新たなカウンター・カルチャーが登場する可能性を、密かに期待したいのである。


 現在、日本でも、ゲイル・キャリガーの〈アレクシア女史〉シリーズや、リニューアルした「銀背」こと新ハヤカワ・SF・シリーズでスコット・ウェスターフィールド『リヴァイアサン』が邦訳され(いずれも売り上げ好調だという)、いよいよ、本命とみなされていたシェリー・プリーストのローカス賞受賞作『ボーンシェイカー』(ハヤカワ文庫SF)の日本語版がお目見えと相成った。
 今が絶好のチャンスだ。それらに共通するサブジャンル的な趣向であるスチームパンク的なガジェットの総体を整理し直すだけではなく、背景にあるムーヴメントにも目を向けてみてはいかがだろうか。すでに日本でも鋭敏な創り手は、新たなスチームパンク・ムーヴメントを受容し、作品に活かそうと動き出しているようだ。

 ところで、これまで小川隆氏は「SFマガジン」誌上で5回に及ぶ「スプロール・フィクション特集」を主導してきた。同誌2010年6月号ではすでに特集「スチームパンク・リローデッド」の監修を行なってもいる。
 こうした試みを通して小川隆氏は、「SF」といわゆる「主流文学」の垣根を越えたホットな作品群を紹介してきた。あるいは「SF」と周辺文化が混交した、オリジナリティあふれる作品群を日本語文学に導き入れる役割も果たしてきた。けれども、その意義はいまだ――SFの世界においてさえ――充分に検討されてはいない。


 いつの間にか、私たちの感性はドメスティックに閉じてしまっているのではないか。
 今回改めて紹介されたネオ・スチームパンク・ムーヴメントが、そうした閉塞的な状況に、一つの風穴を開ける試みへと発展することを祈念したい。


 翻訳家集団「26 to 50」のウェブサイトでは、いくつかネオ・スチームパンク小説の現物を無料で読むことができる。
 筆者のイチオシは、シオドラ・ゴス「クリストファー・レイヴン」鈴木潤訳)だ。