大杉重男氏への御礼

 大杉重男氏に、再応答をいただいていた。私に余裕がなく、確認と応答が遅くなり申し訳ないが、論点を改めて整理いただいたので、それに対して簡単ながらコメントしておきたい。

 まず、拙稿を介し、武井茂穂のような――遠地輝武の近くにいた詩人たちも多くは物故しているため、まるで回想されなくなっている――書き手の意義をご理解いただいただけでも、拙稿を書いた意義はあろうというものだ。

 もろもろ貴重な視点をいただいているが、まず、「武井と大江の違いは、権力の弾圧(戦後の日本社会において少なくとも言論レヴェルでは戦前とは比較にならない)に屈したかどうかではなく、原発に対する当事者性の有無」という点は、原発に対する当事者性は、むしろ誰にでもあるのではないかと思う。脱原発に「東アジア同時革命」が必要だというのなら、なおさらではなかろうか。そういう立場から、むしろ大江こそ(原発プロパガンダを担ったという意味で)当事者であったのではないかと思う。

 もちろん、大江には武井がそうであったような、〈核〉をめぐって生活が侵襲されるという喫緊の危惧はなかっただろう。大江の甘さはこの点にある、ということならば同意したい。つまり、地方が中央のために収奪される構造に対し、「地べた」から見返す眼差しが不十分で、だからこそ、本稿の結末は大江が見落としたものを武井が拾っていたことを指摘した。

 ちなみに「地べた」の比喩は、鎌田哲哉由来ではなく、向井豊昭のエッセイ「思想は地べたから」(「作文と教育」1968年4月号)から引いているもの。私は鎌田のテクストは大半に目を通しており、「知里真志保の闘争」のオマージュを自著に用いたこともあるが、面識はないし、やりとりもない。「重力」ブックレットを公式サイトの通販で買ったとき、対応してもらったくらいだろうか。

 この点、杉田俊介大澤信亮などと一緒くたにしないでいただければと思う。杉田は「ファイナルファンタジーⅠ」、橋川文三魯迅……。どんな対象を論じても、手つきが流行りのタームにかまけ、基礎的なリサーチすら怠り、議論がしばしば「日本」の内に閉じており、何ら尊敬できない。大澤は、大塚英志『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』(角川oneテーマ21、2005)に共著者として名を連ねているものの、同書で転回される謬説たる小熊秀雄転向論(「フラジャイル」12号の拙稿「現代北海道文学研究(2)」等に詳述)に対して、私の知る限り何もコメントしていない。こうした連中と十把一絡げにされるのはたまったものではない。両氏には個人的な恨みなどはないが、大杉氏への応答は、文壇ゴシップが大好きな癖に岡和田晃と川越宗一の区別もつかない野次馬に把捉されるので、ここではっきりと断っておく。

 「共産党への弾圧」と「「共産主義」への弾圧」については、私は大杉氏が特に区別することなく「ザツ」に扱っていると思ったからそうまとめたが、今回いただいた説明で、大杉氏の思考の背景がよくわかった。そのうえで、「岡和田は民主主義を何だと考えているのか」という問いは、私も大杉氏と同じく簡単には答えられるものではないと思うが、そこに「百の歴史的事実が羅列されてもすべての議論は雲散霧消する」というのは、さすがに言い過ぎではないか。「百の歴史的事実」という言い方は、いかにも軽い。

 つまり、原理と歴史的事実を対比させ、前者に過剰な重きを置いているように思える。私は詩的なレトリックというよりも、「周縁」を概念ではなく、もう少し実態論的に見直す必要性があるのではと言いたかった。

 とりわけ私が扱ってきたような「周縁」においては、それこそアガンベンの言うような「剥き出しの生」が可視化され、単純な支配-非支配の関係が剥き出しになる。大杉氏が言うように、「「民主主義」と「民主主義」そのものがファシズムスターリニズムの別形態」と思わせるような転倒も頻繁に起きる。

 この点、あくまでも一例であるあが、大杉氏も会員である2024年度の日本近代文学秋季大会での発表資料に詳しくまとめている。読み上げの報告にする予定で、論としては一定のまとまりがあるものになっている。同会のサイトから参照できるので、ご一読いただければと興味を持っていただけるかもしれない。

 最後、大杉氏の詩的を受け、「中野さん自身がモデルですが」という発言が削除されておらず、原文ではそのままだというのは、私の校正漏れが残ってしまっていた。この点を「世界」2023年7月号のp.266 上段12行目を、以下のように訂正しておきたい。

 

× 実のところ本誌二〇一二年九月号のスピーチ採録では、「中野さん自身がモデルですが」という発言は削除されている。さらには大江が中野を「私たちの父親の世代と私たちの世代でもっとも大きい作家でもっとも優れた人間」と、最大級の賛辞をもって紹介した箇所も落とされた。「ザツ」な褒め方だからだろうが、レトリック抜きの素朴な本音が漏れたとも解釈できる。

 

◯ 実のところ本誌二〇一二年九月号のスピーチ採録では、大江が中野を「私たちの父親の世代と私たちの世代でもっとも大きい作家でもっとも優れた人間」と、最大級の賛辞をもって紹介した箇所は落とされている。「ザツ」な褒め方だからだろうが、レトリック抜きの素朴な本音が漏れたとも解釈できる

 

 どの観点から見るかという違いはあれども、私としては、根本の問題意識は、大杉氏とそうズレているわけではないことがわかったのが収穫だった。氏の粘り強い対応と、生産的な論点、間違いの指摘までをもいただいたことに改めて感謝したい。

 

追伸:大杉氏のハイドン評が魅力的だというのは、別段リップサービスじゃなくて、本心である。苦笑や揶揄する向きがいるというのには驚いた。そういった輩とは別種の読者を獲得するためにも、まとまった本として提示されてはいかがだろうか。