アルフレッド・ベスター『ゴーレム^100』


 アルフレッド・ベスター
 『虎よ、虎よ!』と『消失トリック』をはじめて読んだときから、私はベスター作品が放つ魔力に魅せられ、いまに至っても魅せられ続けている。

 まさに黄金時代だった。雄渾な冒険が試みられ、生きとし生けるものが生を謳歌し、死ぬことの難しい時代だった……しかし、誰ひとりそんなことを考えてはいなかった。これこそ、富と窃盗、収奪と劫略、文化と悪徳の未来の実現だった…しかし、誰ひとりそのことを認めてはいなかった、いっさいが極端にはしる時代であり、奇矯なものにとって魅惑的な時代だった……しかしそれを愛するものとてなかった時代なのである。

 以上、『虎よ、虎よ!』の冒頭部であるが、この凝縮されたテンションの高さは、ちょっとほかでは類を見ない。


 さて、小説の記述を、状況説明のための記述と情景描写のための記述に分ける、という見方がある。
 だが、SFというジャンルにおいては、状況説明を状況描写によって乗り越えることは、そう、ほとんど不可能なのである。 なぜならば、状況説明において大風呂敷を広げまくるというのが、SFのSFたる所以であって(ミニマリズムなSFも面白いことは面白いが、どこかで大きなところに接続してほしい、と思わずにはいられない)、大風呂敷についていくだけの描写を行なうことのできた例は、残念ながら極めて少ないのだ。


 コードウェイナー・スミスは、記述スタイルを限界まで非‐人間的に狭めていくことで、また、バリントン・J・ベイリーは、籠められた情動に哲学的な広がりをもたらすことで、それぞれ活路を切り開こうとした。
 しかし、我らがベスターは、テンションの昂ぶり、同時多発的に暴発するダイアローグ、猛り狂うタイポグラフィの洪水によって、やすやすと障壁を乗り越える。


 そして、ベスターの試みが、あらゆる意味によって凝縮されているのが、この『ゴーレム^100』なのである。
 ただ『ゴーレム^100』の細部について語るのは、意外と難しい。突っ込む隙がなかなかないのだ。


 この点、コラージュされた挿絵が挟み込まれているクロード・シモンの『盲たるオリオン』とはだいぶ趣が異なる。『盲たるオリオン』では、イメージの連鎖による創作の過程を、盲目の巨人の歩き(モティーフとして、ゴヤの巨人が登場する)に準えているのだが、言葉が生じ、その連なりが徐々に小説として開かれていく様を読者が追っていくことで、既存の物語の枠組みを手探りで乗り越えていこうとする様を、読者は追体験することができる。

 対してベスターでは、既に徹底的に彫琢されぬいた物語がそこにある。それは必ずしも、狭義の文学史の範囲内のみに座するものではない。コミックであるとか、ドラマであるとか、ベスターが経験してきたさまざまな分野でのスタイリッシュな美学を徹底的にぶち込むことによって、(4文字言葉などの「遊び」はあるものの)完成されぬいた猥雑なる「ホラーショー」(byアンソニー・バージェス)を提示してくれるのである。そして、添えられた図版は、シモンのようにアリアドネの糸として機能するものではなく、言葉では提示しきれないものを、言葉よりも鋭く読者の胸に食い込ませることによって、「ホラーショー」そのものをより壮大に演出していっていくれる。


 ワイドスクリーン・バロックを越えた、ワイドスクリーン・パンクの登場だ。