ブログを開設してよかったと思うことに、(たとえ偶然にせよ)向井豊昭氏との知己を得ることができたということが挙げられる(私は『早稲田文学』を2001年ごろからずっと読んできたので、向井作品は当然継続して目を通している)。
例えば雑誌の衰退やケータイ小説など、とかく小説をめぐる状況が稀薄化する現状というものがネット社会の罪悪として読書家の間では槍玉に挙げられがちであるのだが、仮にそうした状況が「罪」であるとしたら、それまで不当にも黙殺の憂き目に遭わされがちであった作品群に対してたとえ僅かであるにせよ何らかの形でスポットを当てることができるということそのものは、「功」として扱われてもよいのではないかという気もする。
我々は小説を読み続ける。日々生産されつつある小説のなかから、生活に美学にそして思想に、僅かな彩りを求めて活字を手にする。そこによって得られた言葉を、ほかの誰かと共有し深めていくだけの「場所」としてこそ、ネット社会のようなボーダレスであることそのものが必然であるような状況はきちんと機能するのであろう。
いちいち固有名は出さないが、私個人の例を取っても、インターネットを通して少なからず自分の考えを理解していただいたうえで、交流を深められたという例は数多い。特に私のような、文藝とゲーム双方に(異なるメディアとしての)可能性を見出していた者は、時としてえも言われぬ誤解を受けがちなのであるが、逆を言えば異なるメディアへの同時的な関心をそのまま表明することによって、僅かでも誤解が解けたという例もある。
しかしながら、インターネット的な「場所」というもの(ウェブコンテンツというわけではない)は、常にアイロニーを孕んでいる。「場所」としてはあまりにも可塑性が強すぎ、加えてあまりにも流動性が強すぎるからだ。とりわけこうしたブログによる言葉というものは、悪しき相対主義とでもいうべきものに守られすぎてしまっているせいで、主張する言葉が常に斜め上から見られてしまうことになる。
だから、スラヴォイ・ジジェクではないが、個人の有する思想そのものよりも、その思想がどれだけ多くの人に(時として表面的な)同調(影響?)を与えるのかということそのものが意味を持ってくるわけだ。そのような「場所」においては、かつて作家や知識人と呼ばれたような存在が特権的に有していたとされる鮮烈なメッセージの印象は、必然的に薄く引き伸ばされたようなものとなってしまう。メッセージを受容する側としても、内なるニヒリストが絶えず「それでよいのか?」と囁きかけてくるせいで、どうしてもパースペクティヴの範囲が狭められてしまうというわけだ。
読書を巡る状況において、こうした「内なるニヒリストをいかようにして超克するか」という問題は、もう少し真面目に捉え直されてしかるべきだろう。例えば、ある種のマイノリティ文学を読んだとしよう。そこに内在するメッセージを誠実に読み深く理解するためには「政治的な行動といった形で、すぐさま問題意識のあり方はシフトされなければならない」といった強迫観念に囚われることになる。ゆえに、こうした強迫観念というものに惑わされないがためには「そもそもマイノリティ文学になど関心を寄せなければよい」という話になる。無関心であることによってこそ、余計な責任を感じずに済むというわけだ。もちろんそのような姿勢は、ある意味で中途半端に「行動」に首を突っ込むよりも正しいところがある。マイノリティ文学において主張されていることは往々にして非常にデリケートな問題であるので、生半可に手を突っ込むと火傷をするからだ、と言ってはそれまでだが、それに加え、政治的な行動そのものが、実質は非常に素朴な問題であるということも挙げられる。
現に往時の学生運動にせよ(柄谷行人の)NAMにせよ、ある種のイデオロギーのもとに個人を引き上げ、イデオロギーのもとに団結して「敵」を打ち砕こうとする姿勢は、あまりにも素朴なものであるがゆえに、既に各方面より「若気の至り」として「なかったこと」とされつつある。もちろんこうした運動を回顧するにあたり、政治性とイデオロギーについて精緻な考証を重ねながら実証的な分析をしている方々もおられるのだが、そした着実な姿勢をせせら笑うような「空気」が存在するのもまた事実である。こうした「空気」は、悪しき商業性と不可避に結びついているのだから厄介だ。だがそれでは、「読む人間」である我々は、ものを読むことをやめられないのでありながら、その本質から目を逸らさずにはいられないのだろうか。「読む人間」は、「消費する人間」へ取って代わらざるをえないのだろうか。
それはずばり、否である。たとえ一見、マイノリティ文学としての特性が高くメッセージ小説だとして読まれがちなものであっても、作品の質が高ければ、単なるメッセージを越えた普遍性を有する文学作品として、個々の読み手に近づいていくことができる。そして、もし、作品の理念をそうして一段昇華させた形において理解することができたのであれば、「読むか、行動か」のような安易な二者択一にこだわることなく、より実存の深いレベルにおいて、作品に近づくことができるのだろう。このような認識を、最近の向井作品を読むことで得ることができた。
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話を向井豊昭に戻そう。最近ようやく、向井豊昭氏より送られてきた個人誌『Mortos』(小説『飛ぶくしゃみ』、エッセー『バカヤロー』を収録)の3号、そして11月上旬の文学フリマにて購入してきた「早稲田文学0』(冊子版『早稲田文学』の復刊準備号とも言うべき号。向井氏の短編『ドレミの外』が収録されている)を読むことができた。媒体によって作風はかなり違うが、どちらも向井節炸裂とも言うべき痛快な内容だった。
まず、『ドレミの外』について少し語ろう。難しい小説である。
ただ、とある会合の打ち上げの際、私淑する方から聞いた話が、『ドレミの外』を理解するためにだいぶ助けとなった。その方は、映像にも文学にも詳しいのだが、映像固有の言語と文学固有の言語の特性をきちんと理解し峻別したうえで、小説というものは書かれるべきだと言っていた。安易にジャンル固有の方法論は混交されるべきではない、と。だから例えば、トーマス・ベルンハルトの『消去』のような作品は、優れたものとしてその方は高く評価する。一方で、安易なタイポグラフィなどは、逆に小説のリズムを狂わすものとして否定される。
だが、彼が評価するものとして、民話がある。アイルランドやドイツの口承伝統は、書かれることを意識しておらず、口伝が基本となる。しかし、それを書きとめようとすると、語りのリズムなど、どうしても通常の散文では表現できないものをも取り入れなければならなくなる。その際、散文のほかに楽譜が併記されるが、そのような、言葉の音韻性が根付いた形によって併記されたものは、通常のタイポグラフィとはまるで別な形で散文を補強するものとなる。
例えば、『早稲田文学』に掲載され、その後『怪道をゆく』に収録された『ヤパーペジ チセパーペコペ イタヤバイ』など、「音」を基調とした一連の向井作品は、単なる「タイポグラフィの実験」として読まれるきらいがあった。が、こうした「近代の問い直し」として、再読されるべきなのではないか? という思いがあったのだが、そのような認識は、『ドレミの外』を読んであらたにされた。我々が知らなかった(知っていなければならないのだが、本当は)、まったくオルタナティヴな「音」の形(それは魂に結びつくものだが)が、『ドレミの外』には提示されていた。
一方、『Mortos』に収録されている小説『飛ぶくしゃみ』は、小熊秀雄の「飛ぶ橇」をモティーフとした小説である。
・小熊秀雄(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%86%8A%E7%A7%80%E9%9B%84
ぱっと見、わからないかもしれないが、小熊をはじめ、昭和初期に活躍した文学者たちが、何のために筆を取り、何に抗ってものを書いたかということは、(昭和初期の状況と、21世紀初頭の現代の風潮が不思議とシンクロするため)非常に重要だ。現に山城むつみは、『文学のプログラム』や『転形期と思考』において、繰返し、戦前の問題についての疑問を投げかけている。山城むつみの『転形期と思考』については、星野智幸の評論が秀逸だ。
・星野智幸による山城むつみ『転形期と思考』論
http://www.hoshinot.jp/mutsumi.html
ただ、問題なのは山城の取り扱う対象は、「近代」の時代精神を真っ向から受け止めたとされる作家たち(それが結果的には茶番に終わろうとも)であり、絶望を生きながらも何らかの刻印を筆によって刻みつけようとした作家たちでありながら、その試みが茶番に終わらざるを得ないような状況が存在した、ということである。
ここで山城は、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』にある「フォイエルバッハ・テーゼ」に見られるような「交通」の概念を、「個」が世界と繋がるための僅かな「蜘蛛の糸」のごとく読むわけだ。この、「フォイエルバッハ・テーゼ」への読みは、柄谷行人が『世界共和国のために』で描いたようなグローバルな読みとはまるで反対の方向にあるものだが、柄谷が提唱するグローバリズムを整理するための「交通」概念が、時として非常に暴力的なものを含むということは、笙野頼子が最新作『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』で提唱したとおりである。
こうした山城の真摯な読みは、「個」の快復としては非常に有効な手段である――というか、それしかない――と思える。ただ、山城の読みで抜け落ちているものがあるのもまた事実であり、そうした領域について考えるにあたって、『飛ぶくしゃみ』が扱った、小熊秀雄の問題は、興味深い観点を提供してくれている。
――近代から抜け落ちてきたものは、言わば「くしゃみ」なのだ。
近代の国民国家(ネーション=ステート)の総体を、人間の「身体」として準えるような論調が存在する。それは、いわば古代ギリシアを古典的な理想として捉えた西洋式美学による理想的な人間のあるべき姿を、そのまま「国家身体」に当てはめたとでも言うべき考え方だ。ただし、そうしたギリシア彫刻のように健全な「身体」というものは、どこかいかがわしいものがある。こうした危険性が、もっと危険な何か――国家社会主義とでもいうもの――に接近するということは、レ二・リーフェンシュタールの映画でもご覧になればすぐに理解できるだろう。そして、健全な肉体は立派な免疫作用を有しているがゆえに、取り入れられた異物はすぐに「くしゃみ」によって吐き出される。こうした状況を『飛ぶくしゃみ』は、嫌になるほど深いレベルで、暴き立てるのだ。
もちろん、「国家身体」には程遠い、未熟な民衆細胞もとしての「個」もくしゃみはする。ただ、そのくしゃみというものは、「国会身体」が行なうような新陳代謝としての選別作業ではなく、個人が行なう抵抗原理(血が出るようなくしゃみによって、必死で)を、生きようとする人間の姿がある。
流れは、素足の甲に垂れ落ちていく。あざやかな赤だった。
鼻の下に手を当ててみる。指は真っ赤に縫え知多。くしゃみの力の復活は、鼻血と引き換えのものだったのだ。
血を流すほどの生き方を、これまでしてきたMなのだろうか?
否! 文学も、それ以上に力をいれたはずの教育運動も、とどのつまりは常識の衣にくるまれ、裸身をさらしきることができなかったのだ。鼻血がドバのくしゃみもまた、ぬくぬくとした冬着であやされてしまうのだろうか?
いやだ。若かった日のくしゃみの力の復活に、老いの全てを賭けてみたい。こじ開けようとして開けられなかったこの世のもろもろに、血を流して挑んでみたいのだ。
『飛ぶくしゃみ』がモティーフにしている小熊秀雄の『飛ぶ橇』は、アイヌを題材にした詩篇だ。そこでは、小熊がアイヌに籠めた想いが、過度に美化され――その反動として――「転向者」との汚名を着せられたりする現在の(小熊を巡る)状況が基調にあるのだが、まずは政治性以前に、人間に対するこのうえなく深い洞察が、これらの作品には根付いているのだ。このことを、ここではっきりと記しておこう。もちろん、向井作品の基調にあるユーモアは忘れられていないから安心だ。
・早稲田文学編集室
http://www.bungaku.net/wasebun/
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