『SFマガジン』1月号(テッド・チャンについて)


 『SFマガジン』1月号のテッド・チャン特集をひととおり読む。
 基本的に、収録されている作品群は、エッセーやインタビューを含め、 ある種のコンセプトに則ってまとめられている、といった手触りがある。
 ふだん、大森望の翻訳に関しての選択眼は高く評価したい。ゴールデン・ドラゴン・ファンタジーバリントン・J・ベイリーイアン・ワトスンジョン・クロウリー。みな、大森望から習ったものだ。そして、今回の特集に関しても、一本筋の通った選択をしている。それはすぐにわかったし、とりわけ、収録作のうち、アメリカではわずか62ページなのに、ハードカバー、25ドルで出版されたという『商人と錬金術師の門』は、なかなか興味深いところを突いてきており、楽しく読んだ。


 どういうところを突いていたのか?
 それはすなわち、科学と魔術の違いについてである。


 「充分に発達した科学は、魔術と見分けが付かない」とは、SF者の間で 呼びならわされた台詞であるが(アーサー・C・クラークだったか?)、それはあくまで逆説の話だ。
 どれだけシステムを構成する構造が似通っていても、科学と魔術の間には、 はっきりとした線引き、すなわち断絶があるのもまた、事実であろう。


 つまり、出発点が違うのだ。科学は客観性を重視し、魔術は主観に重きを置く。 「近代」というフレームを通じて「自然」と「人間」とが端的に分かたれたというのが哲学史の通説だと私は認識しているが、そうした観点から見ると、科学と魔術の違いとは、「自然」に対し、どうアプローチするかという姿勢の違いでもあるということがわかるだろう。


 だから、両者の差異はさながら18世紀に盛んに論争された、「自然科学」と「自然哲学」との差異を問い直す問題であると言い換えてしまってもよいのではないか。


 そういえば、2年前くらいにヘーゲルの『自然哲学講義』が翻訳されたようだ。これはまだ目を通していないが、きっと肯定的にしろ否定的にしろ、興味深い洞察が得られるに違いない。


 さて、「自然哲学」においては、「自然」を「哲学すること」によって掴み取るべき「根源」が、いったいどこにあるのかが問題となる。 たいていの場合、その「根源」は「一神教」的な「神」と同一視される。 つまり「自然」を「哲学すること」は、「神」について思惟をすることにほかならないというわけだ。
 翻れば、まず、全能者たる「神」を配置し、そこから後づけとして、「自然」が生まれてくる。そうすることで、例えば、時間・空間が配置されるというのが、大雑把に言えば、「自然哲学」の考え方だ。


 ただ、テッド・チャンの面白いところは、「自然科学」の観点から、「自然哲学」の世界観をばっさりと図式化して整理したうえで、はっきりとした物語を乗っけていくことだ。この、チャンならではの整理の方法は、テクニカル・ライターを本業にしているのもむべなるかな、と言わんばかりにわかりやすいもので、読みながら、びっくりさせられた。


 ニューウェーヴ以降のSFの流れからは、ちょっと考えられない豪快さだが、それゆえ、50年代のSF(アシモフとか)が有していた原理的なセンス・オヴ・ワンダーに近づくこともできるし、わりとピュアな話を外挿することができるので、人気が出ているということだろう。


 もちろん、『商人と錬金術師の門』のラスト、妻の「最期の言葉」を聞くことができた語り手が、数奇な放浪を余儀なくされた挙句、カリフの面前に引き出されてきたように、「自然科学」のわかりやすさが、「自然哲学」の一神教的な壮大さに呑みこまれてしまうようなところは、確実にある。


 ただ、そうしたところを考慮してもなお、チャンのアプローチから、拾えるものは出てくる気がしないでもない。チャンが切り捨てたものをあえて見直すのも、重要だろう。このあたりを考えるためには、たとえばチャンの原型に戻り、ラヴクラフトの『無名都市』(『廃都』)を読んでみたり、あるいは、より「自然科学」と「自然哲学」の差異構造が強調される、16世紀の自然科学者ものの小説を再確認すべきではないか、とも思えてくる。


 例えば、ベルトルト・ブレヒトの『ガリレイの生涯』は、チャン的な素朴な楽天性を、より深刻なものとして捉えなおしているし、ジョン・バンヴィルの『コペルニクス博士』では、こうした二項対立に「歴史」という第三の軸を入れ、問題を立体的なものとする。マルグリット・ユルスナールの『黒の過程』では、歴史そのものが第三の軸から、さらに個人の近くに引き戻されている。 ついでに言えば、日本におけるこのジャンルのおそらくは最高傑作である佐藤亜紀の『鏡の影』は、チャンが切り開こうとした地平よりも、「自然哲学」的な観点から、さらに数段先に乗り出してしまっている、という気もしてくるのだから、「自然科学」と「自然哲学」との関係性についての興味は尽きない。