『SFマガジン』1月号その2(『ドラッケンフェルズ』三部作について)


 テッド・チャン特集により、『SFマガジン』1月号を心から堪能した私だったが、残念なところもあった。
 それは、今年度の最良の収穫のひとつと言っても過言ではない、ジャック・ヨーヴィルドラッケンフェルズ』『吸血鬼ジュヌヴィエーヴ』『ベルベットビースト』が、当該号のすべてのレビューコーナーで完全にスルーされていたことだ(新刊コーナーでは取り上げられていたが)。念のために言うが、私が『ウォーハンマーRPG』関係の翻訳をしているから、ウォーハンマーノベルを称揚しているわけではない。『ドラッケンフェルズ』三部作が訳されたと言うことは、SF/ファンタジー/ホラーというジャンルとRPGが再度、幸福な結婚を果たしえたと言う記念碑的な営為に他ならないのに、それがあまり重要視されていないのが悲しいのだ。


 70年代後半に生まれたRPGとは、物語とゲームをはじめて有機的に結びつけることに成功した、新しいメディアだ。それゆえ小説という基本的に保守性の強いジャンルからは、零れ落ちるものとして理解されるきらいがある。だから、ゲームという素材が、ジャンク化した「サイバースペース」のごとき逃避の場所として扱われるというケースが、非常に多い。もちろん、「逃避」もRPGの、そしてSF/ファンタジー/ホラーの重要な機能だ。だが、「逃避」一緒くたとして理解されてしまってはつまらないだろう。


 一冊ずつ、『ドラッケンフェルズ』三部作の優れた点を簡潔に語ろう。
 『ドラッケンフェルズ』では、物語の象嵌法(ジャン・リカルドゥーが『小説の言葉』で述べているような、入れ子構造のこと)にRPGという素材が緩衝材としてうまく活用されている。
 『吸血鬼ジュヌヴィエーヴ』では、古典的なゴシック小説を真摯にトレースすることで、RPGというジャンルがゴシック精神の継承に役立つことを証し出した。
 『ベルベットビースト』では、「小さな物語」の集合以上のものを、RPGは産み出せると言うことを物語の生成論的な側面から証明した。


 これらの小説が達成し得たことは、小説というメディアの発展のためには、もっと注目されてもよいだろう。そのほうが、SF/ファンタジー/ホラーも、RPGも、さらなる高みを目指していけるはずだ。