ヴォネガットは、主に『タイタンの妖女』と『スローターハウス5』と 『母なる夜』によって、かつて私の中でカルチャーヒーローとなっていた男 なのだが、9・11以降のこの不穏なご時勢、ひょっとすると濁世に心底愛想を 尽かし、ボコノン教の向こう側に行ってしまったのではないか、と危惧してしまい、なかなか近年の作品に手がつけられなかった。 ただ、なんか、最近、無性に原理的な言葉がほしい気分になったので、 『国のない男』のページをめくってみたのだった。
そこで飛び込んでくるのは、『チャンピオンたちの朝食』でお馴染みのAss Holeの絵であり、さらに厭世の度合いを増しつつも、さらに 悲しみに満ちたジョークと含蓄で笑かしてくれるという、 ヴォネガットおじさんならではの深い、深いお言葉であった。
(ASS HOLEのイラストを思い浮かべてみて)
ただ、注意すべきことは、作中に出てくる、一見ナイーヴな読解を 許してしまいそうなこれらの言葉が、文字通り「自然を守れ」とか 「化石燃料を使うな」とか当たり前の主張に、簡単には還元できない ということだ。
つまり、ヴォネガットは、「自然を壊さずにはいられず」「化石燃料を消費せずにはいられない」人間に対し、根本から絶望しているのである。現代とは、メタファーの通じない時代だ。だから彼が行間に篭めるものは、絶望をおいてほかにはない。
むかしの話だが、環境ライターをやっていた際、『百年の愚行』という写真集をメールマガジンで紹介したことがある。主に環境汚染テーマにを扱った、クサい写真集だ。個々の写真はインパクト大だが、ロハスな人に訴えかけることを主眼とした編集方針や、「偉い人」の余計な言葉によって、肝心の写真そのものが持っている固有のインパクトが殺されてしまっていたのが、痛かった。
しかし、ヴォネガットが違う。
ヴォネガットの発言は、安易なクサさに落とし込めない。
もちろん、「右」とか「左」とかの短絡的な立場にも。
ヴォネガットの発言は、ヴォネガット以外の人間が口にしても、まるで意味を持たない類の、危うい台詞だ。
同時に、言葉というものが持ちうる根源的な地平に、ガリガリ迫ってくるような何かがある。欺瞞を入れずアンチ「世界市民」(そういえば、「世界市民」が、「アカ」の言葉だと思われていたということを、私はマルセル・ライヒ=ラニツキの『わがユダヤ・ドイツ・ポーランド』を読んではじめて知った)としての立場を貫いた彼ならではの仕事で、読みながら私は、たいへんに満足したのだった。
だからといっては重箱の隅突つきに聞こえるかもしれないが、作品の原題は"A Man Without Country"なのだから、邦題として採用されている「国のない男」というよりも 「故郷(くに)のない男」とするべきではないかと思ってしまった。
ヴォネガットは、Nation=Stateレベルの話をしているわけでは、 つまるところ、ぜんぜんないのだから。