私淑する作家をひとり選べといわれたら困ってしまうが、迷った結果、やはりクロード・シモンと答えてしまう気がする。 人間と(人間性の一部としての)戦争との関わりについて、これほど深く語ることができた作家はほかに知らない。 ヌーヴォー・ロマンだとか、ノーベル文学賞だとか、そうした肩書きは気にせず、虚心坦懐に読めば得られるものが大な作家である、と心から思う。
・シモンについて、比較的マシな記述。
http://www.spacelan.ne.jp/~kamenaku/sousou/sou21.htm
・シモンが亡くなったとき、蓮実重彦が朝日新聞に寄せた追悼文(前半部)。
九一歳のクロード・シモンが静かに息を引きとったと聞いて、ほっとしている。多くの優れた作家がそうであるように、彼もまた書くことであらかじめ死を受け入れていた存在であり、その身に訪れたごく最近の死が、彼の作品を、文学にふさわしい生きた時間へとようやく解き放ってくれたように思えたからだ。
言語という高度に抽象的な形式によって世界を記述する文学は、死の死ともいうべき矛盾を解してしか世界と触れあうことはないのだが、どうやら人類は、その矛盾になお鈍感なままである。
近代とは、この鈍感さの共有によってかろうじて維持される何とも脆い社会にほかならず、優れた作家は否応なしにその現実を直視する。ノーベル文学賞受賞者、ヌーヴォー・ロマンの旗手、ジョイスやプルーストの後継者、等々、この作家をめぐって口に出される言葉のほとんどは、社会がみずからの脆さを視界から遠ざけて発信する生存本能の記号化されたものでしかない。 そんな言葉がシモンの作品を視界に浮上させるはずもないが、それとて近代の小説が感受すべき宿命にほかならず、 とりわけ目新しい事態ではない。
「ピレネ地方在住の葡萄栽培者にノーベル文学賞!」という言葉で彼の受賞を伝えた全国紙があったように、クロード・シモンは、 国際的な高い評価にもかかわらず、フランス本国では必ずしもポピュラーな作家ではない。
だが、農園主でもある彼の文章のほんの数行を読んだだけで、言葉をめぐる感性と知性とが異様なまでに研ぎ澄まされていることに誰もが驚き、 その作家の同時代人たりえたことに、言葉にはつくしがたい至福感を覚えずにはいられないはずだ。
ハスミンの指摘は概ね正しい(ポピュラー云々に興味はないが)。現に私も、シモンを読み込んだことによって、小説の細部を楽しむ視座を獲得することができたように思える。それまでは、何かに突き動かされたように直情的な姿勢をもって本を読むような傾向があったのだが、シモンによってそれはよい方向に塗り替えられたというわけだ。
ちなみに、シモンを読み込んでいた頃のことは、ここに書いておいた。
昔の文章なのでなんか青臭くて気恥ずかしいが、たまには気恥ずかしいのもよいかも。
http://d.hatena.ne.jp/Thorn/20040908
だが、シモンは時期によって作風が(かなり)異なる。一見、シモンは私小説風なモティーフを繰返し用いるので、誤解されがちだが、実際には手法は全然異なる。
おまけに旧作は絶版のものが多く全貌がなかなか見えないところもある。実際、先のリンク先でも触れた入門用に最適な『アカシア』なども絶版で、私が最後にAmazonマーケットプレイスで見たときには、12000円もの高値が付いていた。
ただ、ウェブをさまよっていると、松尾国彦論集が無料配布になっていたということに気が付いた!
松尾国彦論集とは、急逝したシモン研究者の遺稿を奥さんが編集して自費出版したもので、大部分は大学の紀要論文なのだが、通史的な見解を得るにはうってつけだ。とりわけ、未訳作品についての記述が多く、たぶん、大学図書館の研究論文を漁ることを除けば、一般に未訳のシモン作品について知るには、この論文をあたるるしかない。
『アカシア』の訳が付いているのもポイント高い(未完だが)。
私はかつてこの遺稿集を紀伊国屋書店の委託販売で買ったが(3年くらい前。1000円だった)、フランス語特有の部分はわからなかったものの、かなり勉強になった記憶がある。 それが、無料配布になったということは、より幅広く門戸が開かれたということだろう。
機会があれば、松尾論文に限らず、ぜひともシモン作品をご一読されたい。
・松尾国彦論集
http://kmatsuo.seesaa.net/