ジョン・バンヴィル『プラハ 都市の肖像』


 ジョン・バンヴィルの『プラハ 都市の肖像』を読む。バンヴィルは、もっとも好きな作家の一人だ。なかでも、『コペルニクス博士』と『バーチウッド』は驚異的。だが、この作品に関しては、帯の惹句があまり好きではなく、そのため敬遠していた。しかし、魂がバンヴィルを求めてやまないので、読むことにした。
 本書でのバンヴィルの視点は、懐かしさを湛えていてても、思っていたほど叙情に流れない。その乾き具合から、独特の磁場が発生していて、それが非常に心地よいのである。


 唐突だけど、僕なんかたまにですね、そう、年に1回くらい、彼女とディズニーシーに遊びに行ったりするわけですよ。 でも、ディズニーシーに行っていちばん楽しいのは、乗り物でも、キャラクターのパレードでもない。雑多なジオラマのなかに、妙なこだわりがある箇所が存在する。僕はそこが好きだ。
 例えば、今回、フェルメールの「天文学者」の画像を出してみたが、こういうお方が住んでいたような部屋が、ディズニーシーのとある地点には、ジオラマとして再現されている。 そうした細部の再現性を愛でるために、僕はテーマパークへ、わざわざ足を運ぶわけだ。告白するが、「天文学者」の仕事部屋のような空間にいるときだけ、僕は心休まるのである。
 それはつまり、結局のところは、なけなしの金で一瞬の追憶を買ったことにほかならないのだが、同時に、フェイクを享受しているからこそ、愉しめる部分もある。それは、フェイクを通して、歴史と現在との距離感を、身をもって再確認するという経験だ。


 卑近な例で恐縮だが、かような経験とおんなじ匂いを、バンヴィルの『プラハ 都市の肖像』には感じる。
 『ケプラーの憂鬱』というバンヴィルの自然科学者ものの小説(第2作目)がある。これは、確かイギリスの権威ある文学賞、ガーディアン賞を受賞している作品だが、かなり複雑な構成になっていて、僕も全体像を、つかめていないところがある。
 『ケプラーの憂鬱』のなかには、16世紀に活躍した狂人皇帝ルドルフ2世と、幾多の山師に紛れながらも彼に寵愛された自然科学者たち、つまりはヨハネス・ケプラーやティコ・プラーエが顔を出す。そして、彼らは、『プラハ 都市の肖像』にも同じく登場するのだが、そこでバンヴィルが語る口調の、ノスタルジックでありつつ、微妙に距離を置いたやるせなさが、僕にとっては酷く胸に来る。


 基本的に、文学におけるナイーヴさというものを、僕はあまり買わない。だが、バンヴィルの回想は、前を向いた追憶といった感触がある。追憶の背後には、底知れぬ深淵が横たわっており、その虚無感を背負った上で、深淵そのものを慈しんでいる気配があるからだ。
 稀有なテクストである。

プラハ 都市の肖像 (Writer & Cityシリーズ)

プラハ 都市の肖像 (Writer & Cityシリーズ)