「破滅の天使」とは何者か?


 先日もこのブログに書きましたが、総合ゲーム雑誌『GAME JAPAN』(ホビージャパン)の3月号(好評発売中!)にて、私の手になる『ウォーハンマーRPG』のリプレイ、「魔力の風を追う者たち」の連載が始まりました。
 もう店頭に並んでいるので、既にご覧になった方はお気づきのことでしょうが……。
 第1話のタイトルは、「破滅の天使」になっております。これっていったい、どういうことなのでしょうか?
 だって、(私の知る限り)『ウォーハンマーRPG』には、(キリスト教で語られるような)「天使」も「悪魔」も存在しないのですよ? なるほどディーモンという存在はいますが、あくまでも「デーモン」のもじり。
 「天使」も「悪魔」もいないのに、どうして「破滅の天使」なの?


 いや、ネタバレにはなりませんので、未読の方もご心配なさらず。
 実は、このタイトル、『ウォーハンマーRPG』の世界観に深い関わりがあるのです。


 『ウォーハンマーRPG』の舞台となる「オールド・ワールド」は、中世からルネッサンス期を経て、具体的には17世紀、「神聖ローマ帝国」が存在した頃のヨーロッパをモデルにしているワールドセッティングです。
 その「オールド・ワールド」の面白さとして、まず第一に、それがトールキンの小説『指輪物語』の舞台である「中つ国」のように、現実世界と完全に切り離された別世界を構築しているの「ではない」ところが挙げられます。
 いや、もちろん「中つ国」とて、世界観を構築するために、例えばアイルランド貴種流離譚であるとか、有名な英雄叙事詩である『ベーオウルフ』、北欧・ゲルマンの神話群など、多様な素材を用いてはいます。
 しかし、そうした史実の素材を持ち込みながら、作成された世界設定が現実世界からはどこか完全に独立したものとなっていいるのも、また事実です。
 トールキン自身は、旧約聖書に記された「天地創造」に倣って、こうした試みを「準創造」と呼びました。
 つまり、さながら神(ヤーヴェ)のごとき作者が、作者のみに付与された特権性をもって、無から世界を構築する。そうした「奇蹟」のごとき創造作用が、ファンタジー世界の成立要因として重要であるとされたわけです。
 このような、「作者」と「作品」との媒介項として「奇蹟」のごとき神性に着目するという方法は、ヨーロッパの美学思想においては、特別に珍しいものではありません。なぜかと言いますと、肯定的に見るにせよ否定的に見るにせよ、ヨーロッパ思想においては「キリスト教」が長い間、その中心に据えられていたからです。
 現にトールキンのみならず、優れたファンタジー(文学)、とりわけ19世紀後半から20世紀前半に書かれたウィリアム・モリスやC・S・ルイスの作品群などは、神なき時代における「キリスト教」美学の問い直しという問題意識が、非常に色濃いものとなっています。


 しかし、「オールド・ワールド」はこうしたファンタジーの伝統を半ばせせら笑うかのように、ファンタジー世界と史実との距離を意図して縮めたような仕様となっています。どうせ、真空から別世界を構築することはできない。それならば、はじめから現実世界のシャドウをモチーフにとってしまってはどうだろう? ということでしょうか。
 だいたい、「オールド・ワールド」という名称からして、「古きよきヨーロッパ」という、保守的な回顧の志を皮肉るかのような趣きがありますし、「エンパイア」はまるで「神聖ローマ〈帝国〉」の略称のように響きます。エンパイアに存在する都市「ナルン」はわれわれの世界にある(大聖堂で有名な街)「ケルン」を連想させます。名称のみならず設定の面にも、こうしたパロディ精神は如何なく発揮され、われわれの世界(の伝説)に存在するアーサー王は、「エンパイア」の建国者「シグマー・ヘルデンハンマー」として、輝く剣の替わりに粗野な戦槌の主としてゴブリンどもの頭をかち割っている。「混沌の嵐」の被害は、まるで史実の「ドイツ三十年戦争」のそれ。そして、「ナーグル腐敗病」は、そう、黒死病……(もっとも、ゲームには別個に黒死病も出てきますが、アナロジーとしては正しいはず)。
 などなど、史実的な要素をある種のパロディ精神によって換骨奪胎し、それでいて、ともすればファンタジーの弱点として語られがちなナイーヴさを徹底して回避している。こうした姿勢こそが、「オールド・ワールド」というワールド・セッティングをたまらなく魅力的なものとしているのではないか、と思います。トールキンは、ファンタジーの役割として「逃避し、慰めを与え、回復させるための場」であると語りましたが、その流れで言えばオールド・ワールドは、「現実世界から一時戦略的撤退をし、それでいながらゲリラ的・パルチザン的に現実世界への視座を変革しうる場」であるとでも定義できましょうか。


 もちろん、このようなオールド・ワールドという世界の設計思想は、『ウォーハンマーRPG』と設定を共有しているジャック・ヨーヴィルキム・ニューマン)の小説『ドラッケンフェルズ』、『吸血鬼ジュヌヴィエーヴ』、『ベルベットビースト』などにも、きちんと踏襲されております。
 『ドラッケンフェルズ』においては、序盤のドラッケンフェルズ城への遠征と後半の劇場での「ドラッケンフェルズ退治再現」との対比、『吸血鬼ジュヌヴィエーヴ』では、『マンク』や『メルモス』などの古典的ゴシック小説をうまく換骨奪胎した形で、まったく新しい話が創造されています。『ベルベットビースト』では、史実の切り裂きジャック事件が、そのミステリアスな部分を含め、小説的な昇華がなされています。


 さて、以上のような流れから考えてきた場合、トールキン的ファンタジーにおける「キリスト教」を中心とした思想的な背景は、そのままオールド・ワールドでは(『ウォーハンマーRPG』において最大の謎であるところの)「混沌」として読み換えられます。ということは、「オールド・ワールド」は結局、反キリスト的な思想が背景にあるのか? などと考えてしまいがちでしょう。しかし、必ずしもそうではないというのが私の意見です。
 『指輪物語』の最後で、エルフたちが人間の世界を後にするという場面がありますが、これはある意味、ケルト的な「多神教」的「原始宗教」を、キリスト教的な「新しい宗教」としての「一神教」が放逐し書き換えたという構図を連想させます。
 そしてオールド・ワールドも、ケルト的な多神教がベースになっている世界です。……そう、つまり「混沌」は「一神教」という具合に当て嵌まってしまうわけです。『ウォーハンマーRPG』で「混沌」といえば、ナーグル、コーン、スラーネッシュ、ティーンチの四大神が有名です。しかし、四種類に分けられるように見えても、彼らは結局、もともとは同じ「混沌」という存在が、たまたま多様な外観をとったという、それだけのものに過ぎません。
 つまり、「混沌」の神々はそれぞれ、古代日本のように、八百万の神々の一柱というわけではないのです。八百万な発想とは正反対。つまり、一人しかいない神が、たまたま別々の形態をとっているだけの存在なのではないかと思うのです。いわば17世紀の思想家スピノザの言う「汎神論」に近い位置づけであると言えるでしょう。
 ケルト的な「多神教」と、キリスト教的な「一神教」との対立(と融合)。西洋思想における根本的な命題が、『ウォーハンマーRPG』の背景世界オールド・ワールドでは、17世紀のテクノロジーレベル上に移し替えられたうえで、改めて問い直されている。かような理解ができるのではないでしょうか。そして、私のリプレイ第1話のタイトル「破滅の天使」も、当然そうした構図を考えた上で付けられていると思ってくださってけっこうです。
 

※さらに言えば、この「キリスト教」は、どちらかと言えば原始カトリックに近いものがあります。プロテスタントを入れると、オールド・ワールドでは、その名も「ルーサー・フス」なる宗教改革指導者がいるので、また厄介なことに…。

※ここで語られたことは、あくまで筆者の仮説・解釈であり、Black Industries社やGreen Ronin社の公式な設定ではありません。


GAME JAPAN (ゲームジャパン) 2008年 03月号 [雑誌]

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魔術の書:レルム・オヴ・ソーサリー (ウォーハンマーRPGサプリメント)

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ウォーハンマーノベル ドラッケンフェルズ (HJ文庫G)

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