簡単な同人紹介。

 さて、主宰の東條さんは非常に控えめな人なので、僕が勝手に紹介しましょう。
 彼は非常に多彩な人なのですが、一言で言えば「硬質の論客」。
 この「後藤明生レビュー」を見て下さい。
 現在の日本文学にどうしようもなく欠けているものが、既にここで指摘されていますよ。

 後藤明生の方法論はつねに、「小説」というジャンルへの批評的視点を含んでいて、それゆえ、古今の様々な小説へさかのぼりながら、それとは異なる、新しい局面をひらこうとしている。「模倣と批評」という後藤明生の小説作法のスローガンがあるが、これはそんな後藤明生の方法論を集約している。 引用が縦断する作風やジャンルへの自覚的解体=構築の姿勢が、ともすると「ポストモダン」な、「脱構築」な小説家というイメージを作りだし、後藤明生を難解で、ジャンルの蛸壺にはまった一般性もなく面白味もない作家という評価に繋がっているように思える。ネットでもそんな評が見られる。


 しかし、後藤明生の小説の大きな特質はもうひとつあって、それは世界に対するユーモラスな自己認識の側面である。戦中、軍国少年であった後藤明生は軍人になる夢を抱いていたが、敗戦と同時にその「夢」がまるで嘘か何かのように消え去ってしまうという体験を持った。すべては「とつぜん」に、わけも解らず起こった。後藤明生の認識はすべてここから発していると言ってもいい。すべてがとつぜんに、つまり世界の意味を決定できる「絶対者」のいない世界では、すべてのものは、誰かに「笑われる」こともあれば誰かを「笑う」こともまた可能だ、という認識である。後藤明生が始終追求し続けた「笑い」とはそういう世界である。


 笑われうる存在という自己認識から(だけではないにしろ)、後藤明生の文章の独特のユーモアが立ち上がってくる。そして、私が好きなのは氏のそのような認識、文章の味わいにある。哀しみと笑いとが溶融した「滑稽さ」の意識が、つねに後藤明生の小説に横溢している。


 もちろん、後藤明生の文学的スタンス、日本近代文学において等閑視されてきた「笑い」=「方法」の文学史復権させることも刺激的な試みであることは間違いない。二葉亭四迷夏目漱石芥川龍之介宇野浩二牧野信一横光利一らを読み、その方法的側面を抽出する批評的資質はとても貴重なものだと思う。