迷宮の将軍


 ガルシア=マルケスですが、これもすごい。
 うーん、すごすぎて熱が出そう。参った。借り物だけど、きちんと買う。


 ヨーロッパの近代文学とは、ある意味、説話文学、叙事詩みたいなストレートな物語があるなかで、どう新しいものを出すかを考えた、非常に苦しいものだった。そうしたアイロニーをなしにストレートな話にすると歴史が紋切り型になってしまう。
 実際、紋切り型とリアリティはぜんぜん違う話で、我々は紋切り型に感動しつつ自分なりのリアルを生きざるを得ない。そこに断絶がある。


 生きている人のなかで、僕はこのことをちゃんと考えている人は一人か二人しか知らないけれども、ナポレオン戦争ウィーン体制という流れは文学史的にも重要な主題でありうる。

 そこを、『迷宮の将軍』はヨーロッパ的なレジームの「裏面」から照射したわけだ。
 いやでも、『族長の秋』とかより遙かにいいよ。というかまだ手の内が見えない。


 そういえば、仁木稔さんが『迷宮の将軍』について以下のようなコメントを下さいました。

 私は『迷宮の将軍』よりも先にボリーバルの評伝を読みました。


「解放者(リベルタドール)」と呼ばれ、栄光に包まれていた彼ですが、実のところ勝ち戦より負け戦のほうが多くて、幾度となく亡命しています。
 しかし全然へこたれなくて、ある時、また惨敗して南半球(確かチリ)に逃げなくてはいけなかった時、疲労困憊し悄然としている周囲に向かって、彼は「さあ、豊かな南が我々を待っているぞ!」と叫んで唖然とさせたとか。


 それでも、最後には理想がことごとく潰え、「わたしの人生は海を耕すようなものだった」という言葉を遺すのですが、『迷宮の将軍』はそんな絶望に満ちた晩年を描いているとはいえ、彼の陽性の面にもいくらかは光を当ててほしかったと思います。悲哀と背中合わせの陽気さではありましたが。


 レイナルド・アレナスの『めくるめく世界』では、メキシコ独立の思想的先導者となった怪僧セルバンド・デ・ミエル(使徒トマスがメキシコに布教していたと主張)が、ヨーロッパで放蕩三昧をしていた若き日のボリーバルと出会い、教示を与える、というエピソードが登場します。
 いきなりボリーバルが出てきたんで、びっくりした。

 僕はガルシア=マルケスの小説の流れ、あるいは近代文学史の流れでどうしても見てしまうところがあったので、その意味では「陰性」が強調される部分にある種の必然性を見てしまっていたのですが、なるほど。
 確かに、歴史性を考えれば、陽性にも光をあてたほうがよいとも思ったのでした。

迷宮の将軍

迷宮の将軍