『盗まれた遺書』刊行記念、仙田学小論

 仙田学の新刊『盗まれた遺書』が出ました。これは嬉しい! いまのところ、今年で一番推したい小説集です。
 私は収録作を全て初出時に読んでおり、作品集として素晴らしいものになると確信していました。

盗まれた遺書

盗まれた遺書

 順番に列挙すると、「盗まれた遺書」(2013)「肉の恋」(2007)「乳に渇く」(2008)「ストリチア」(2006)「中国の拷問」(2003)の5編。これらは、デビュー作「中国の拷問」を除き、作家・仙田学のキャリアでは、比較的近作に属するものです。入門としてはもってこいでしょう。
 各々の作品には大きくノリとハサミが入れられており、相互に連関性をもって読めるように仕上がっていますが、インパクトは薄れていない。そのインパクトとは、ずばり「現代文学におけるエクリチュール復権」にほかなりません。
 世界のすべてがもはや書かれてしまっていること、つまり世界の記号性にどこまでも自覚的でありながら、そうした世界の様態を精緻にスケッチすることで、異形の風景を立ち上がらせる営為がここにあります。
 かつて批評では、「物語」の優位に対する「小説」の逆襲がしきりに語られました。無自覚にパターンを反復する「物語」に対し、むしろ「物語」に還元できない風景を描写していくことで、表象の暴力に抗うこと。けれども、そうした「小説」の逆襲は、ともすれば自家撞着に陥ります。この自家撞着をもたらす重力に堪えることこそが、「小説」でした。
 こうした「小説」観の前提となるエクリチュールのあり方は、ジェイムズ・ジョイスヴァージニア・ウルフの系列に連なり、ドイツ表現主義ヌーヴォー・ロマンを経由するモダニズムの伝統に沿っています。ところが、仙田学がデビューした2003年は、私が「2003年問題」と密かに名づけているくらいに((『北の想像力』の参加者・倉数茂さん、田中里尚さんと話していて出てきた「問題」です))、エクリチュールがもつ批評性がもはや時代遅れであると軽視されはじめた時期でした。
 代わりにもてはやされたのが、高度資本主義と結託した「泣ける」癒しの「物語」です。現に2007年頃、仙田学の単行本が出ると雑誌で告知されましたが、実現しませんでした。すでに10年のキャリアを持ちながらこれまで単行本が出なかったというのは、『なにもしてない』を出すまで10年辛抱しなければならなかった、笙野頼子の苦労を彷彿させます。今回『盗まれた遺書』が出たことは、「ゼロ年代」なる呼称において過剰に抑圧され(無視され)つつも伏流のごとく書かれてきたエクリチュールが、時代を塗り替えるべく怒涛のごとく噴出した、まさしく画期的な事態だと思うのです。
 これが何の賞もとらなかったら怒るよ。
 では『盗まれた遺書』を誰に読ませたいかというと、エクリチュールや「小説」のあり方に関心のある方々のほかには、スリップ・ストリーム、例えば「想像力の文学」叢書(早川書房)を愛読した方々でしょうか。実際、横田創佐藤哲也らの読者は『盗まれた遺書』を気に入るはず。
  面白いのは、仙田学が『盗まれた遺書』出版に先立ち、ライトノベル『ツルツルちゃん』を上梓していることでしょう。これは純文学作家の手遊びでも、食えなくなってラノベに逃げたわけでもなく、もっと異形の作品でした。『ツルツルちゃん』を語るのは難しいのですが……ある種のライトノベルの定形に、フィリップ・K・ディックめいた全能感を有するヒロイン像があることを考えてみてください。リアリズムで考えれば奇妙なこの種の設定に、エクリチュールの果てに浮かび上がってくるエロスと同じものを見出そうとしている作品なのです。
ツルツルちゃん (NMG文庫)

ツルツルちゃん (NMG文庫)

 より具体的に、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』を思い出してみましょう。『ナジャ』というテクストの魅力は、エクリチュールが醸し出すエロティシズムと、ヒロインの人物造形が生み出す非現実的なエロティシズムが、みごとに融合しているところにあると思います。
 そして『ツルツルちゃん』に仮託されたエロティシズムは、ライトノベルの定形像に入れ込まれてはいますが、そこに収まりきらないもの、「2003年問題」を経由した何かを感じさせます。要するに「セヴンティ」の樺山三英が、『ハムレット・シンドローム』を書いたようなものです。
 仙田学はエッセイである種の変身願望をグラビアアイドルに仮託していますが、そこにはサブカル文化人めいた斜に構えた感じが全然なくて、言葉の本来の意味でのフラットな姿勢を感じないではありません。これは『盗まれた遺書』を、アイドルやラノベの文脈で読め、というメッセージではない。それは、全てをアケスケに語りながら、何も語らずにいることではないか。
 むしろ仙田学の緻密なエクリチュールの果てに生み出されるエロティシズムが、アイドルやラノベという「現代的」な表象とも接続しうる自由さを持ちながら、かつ捉え難いことに着目すべきでしょう。
 「中国の拷問」の頃から仙田学のテクストは、生半可な「癒やし」とは、もっとも隔絶したところにあるものでした。そうした孤高の姿勢が、飼い殺しにされてしまう時代、潔癖症に終わらず「雑」の肯定として立ち上がり、野心を倍加させた作品が『盗まれた遺書』でしょう。
 「雑」の肯定といっても、現代的な風俗を作品にコラージュして足れり、というような薄っぺらい感じは微塵もないのが素晴らしいところです。意匠だけを見る読み方では『盗まれた遺書』を語ることはかないません。エクリチュールの強度が何かと、考えなければならない。
 さて、もう少しテクスト内在的な読解については、どこかで書ければいいなぁ、と思うのですが、仙田学には「零年代のレミー・コーション」「平均的駅員」「きみの中指の深爪の」といった、ミニマリズムフェティシズムを極めたような作品がすでにあるので、これらも単行本で読みたいものです。「零年代のレミー・コーション」からもわかるとおり、ゴダールアラン・レネの映画、あるいはバルト、リシャール、リカルドゥー、蓮實重彦渡部直己(受賞時の選考委員でもあった)らの批評に関心のある向きは、当然のことのように『盗まれた遺書』をチェックしなければ、モグリと言われても仕方ない(笑)。
 大事なことなのでハッキリ言います。
 『盗まれた遺書』のような小説は――ここ15年くらい(?)の文学をめぐる環境においては特に――本になったことが奇蹟的と思われるような、その重要性が見落とされてきたタイプの作品です。そのココロは、「エクリチュール復権」。憶えましたか。
 ともあれ、『盗まれた遺書』は、いくら状況を加味しても、こういう大味な推し方がいささか気恥ずかしくなるような、仙田さんに怒られてしまうのではないかと不安になるような(笑)、緊張感に満ちた作品集になっています。
 批評のパロディ小説、批評のディシプリンでは語りづらいもの(ブルース・リーとか)を小説に落として「笑い」をもたらすというのが、90年代には流行ったことがありますが、そういう安直なものとも、決定的に隔絶されている気がします。


 参考資料としてサルベージ予定。


・仙田学「『ナジャ』におけるイメージとテクスト」
http://ci.nii.ac.jp/naid/11000484949


・仙田学「アンドレ・ブルトンの「反文学的な」展望」
http://ci.nii.ac.jp/naid/11000128216