時事通信に黒田夏子『abさんご』評を寄稿させていただきました。

 黒田夏子abさんご』の書評を、時事通信に寄稿させていただきました。2013年2月5日付けで配信され、今週末から全国の地方紙に掲載されると思います。これは特に巧く書けた、そういう手応えがありました。併催された短編についても言及しています。

abさんご

abさんご

 書評ではなるべくテクストの内在的論理を解きほぐすことに注力したつもりでしたが、ここではちょっとした外枠の話をいたしましょう。
 この作品、「早稲田文学5」の掲載時から読んでいました。初読時から時間をかけ、「abさんご」が何に近いか考えましたが、晩年の藤枝静男かなと思います。しかし、より構築的ではないかとも。
 もう少しベタに言えば、江中直紀や蓮實重彦といったエクリチュール派批評家が実作を通じて夢見た類の作品ではないでしょうか。彼らは、ドゥルーズなど、同時代の哲学者の語彙を借り受けることで――哲学のフレームがどんなに頑張っても捨て去ることのできない――図式的な枠組みに回収されない言葉を求めたのですが、当然ながらこの方法はダブル・バインドを内包していました。とりわけ、語る言葉が「哲学語」の文脈を逃れることができなかった。「abさんご」は、まさしく幽霊のような語りを実践してみせることで、男の子たちの壁を乗り越えてみた作品だと思います。
 あらかじめご注意を。生半可な気持ちで読むと「呪われる」類の作品です。おそらく、新古今和歌集といった古典はこういう境地を志向していたのではないかな、とも。はじめて読んだとき、寒気がしました。


 今回の書評を書くにあたって、審美社からでていた著者の第一著作集『累成体明寂』を読みました。

累成体明寂

累成体明寂

 古井由吉に『仮往生伝試文』という近代の日本語を根底から否定した作品がありますが、専業作家である古井由吉とは違って、『累成体明寂』はマーケットとは完全に別なところで、ひたすら孤独に、書くという「あそび」を続け、思索を深め、文章を鍛えられてきたものです。誰しも、そういう人が、どこかにいるのかもしれないと一度は考えるでしょうが、いるはずがいないとシニカルな笑みを浮かべます。しかし、やはり、そうした人はいたのです。
 宇野邦一という批評家を私は敬愛していますが、宇野邦一の文章は批評だからこそ輝く、というところがあります。だが、『累生体明寂』は、ちょうどその反対。巻末の著者紹介には、陽の目を観ていない発表作がいくつも記されていて、タイトルだけで、圧倒される。知らない現代音楽をみつけたような驚きがありました。文章は試行錯誤が見え、イメージャリーが飛び交うものでありながら、時折、はっとさせられるような哲学の枠組みが生成しては、たちまち、消えてゆくのです。瞬間の美しさが、言葉に絡み付いている。