ジョン・スラデック『遊星よりの昆虫軍X』


 ジョン・スラデックの『遊星よりの昆虫軍X』を読む。


 スラデックとはトーマス・M・ディッシュの盟友で、ニューウェーヴSF全盛期、つまり60年代後半にディッシュと組んでアメリカからイギリスへと移住し、そこでおちゃらけた言語遊戯系SFをものして名を成したかと思えば、金のためにマッドなオカルト本やらを書きとばしたりしているいい感じでいかがわしい男なのだけれども、そのスラデックが90年を目前にして書いたお馬鹿SFである。あまりにもアチャラカな邦題に驚き、ポストモダン思想とサイバーパンク全盛期のあの時代にホントに『宇宙戦争』系のバリバリな侵略SFをブチかましてくれてしまったのか、と早合点してしまったのだが、原題を観るとシンプルに"BUGS"だし、内容は冴えない純文学作家が(スラデックとは反対に)イギリスからアメリカにやって来て、なぜかソフトウェア開発のためのエンジニアになってしまい、さまざまな悲惨な目に遭うという設定のコミックノヴェル調の作品だったので、ああ、このステキに素晴らしいタイトルは単なる訳者のお遊びだったのか、と思ったら、そうではなかった。
 ちゃんと"BUGS"はやって来るのである。まあ、やや象徴的にだけれどもね。そしてその象徴がラストでもう一度ひっくり返されるのだからニクい。


 ウィリアム・バロウズは、「言語は宇宙からやってきたウィルスだ!」とのたまったらしいが、スラデックの作品に登場する侵略者はウィルスではなく、昆虫軍(BUG)であり、ソフトウェア開発における「バグ」というカタチをとって日常生活に入り込んでくる。
 面白いのが、そのバロウズ的なセンスがコンピュータ言語の世界だけではなく、文学の言語にも入り込んできている、ということだ。
 つまり、ダジャレを繋いでいくうちに法螺そのものが一人歩きし、ある種の壮大な虚構が生まれてくる。文学理論の世界ではこれを「生成論」と呼ぶらしいが、この「生成論」的プロセスは、コンピュータ言語を使ってプログラムを書いているうちに、知らずバグが発生するのと似ているのではないのか? ということで、この類の疑問がおそらく作者スラデックのアタマを支配している。

 
 たとえば、物語の序盤。プログラムを担当することになった主人公は、AIの反応を調べるために、「ゴミプログラム」を打ち込むよう同僚に言われるのだが、持ち前の「文学的」センスをつい出してしまい、ジョージ・オーウェルの『1984年』の衣鉢を継ぐようなコトバ(「戦争は平和である」とかそんな感じ)を生み出し、AIへの質問として打ち込んでしまう。ところがAIは、その質問の意義を真面目に考え、ついには自我を持つに至るのだ(「コギト・エルゴ・スム」というわけ!)。まあ、その過程は多分にメタフィクショナルな要素が入る複雑なものになっているし、自我を持ってからのAI(ロボットM)を巡るドタバタ話もこれまた長いので省略せざるをえないのだが、AIが自我を持つまでの思考経路を辿る台詞が本文の後半にあるので、試しに引用してみよう。

「プリズムはプリズンに似ている。これを記憶しておこう。すべての類似は明示され収斂する、それは事実である。オーウェルは正しかった。戦争は平和だ。わたし自身はわたしの承認済み類語辞典でこれを調べた。戦争は戦闘のことである。戦闘するのはつかみあうことだ。つかむとは把握である。把握とは掌握である。掌握は承諾である。承諾は一致である。一致は調和である。調和とは平和のことだ」

 翻訳が苦しいということなかれ。とても頑張っている訳文だし、「生成論」がBUG」となって、思わぬ作用を生み出してしまうというルートが、とても判りやすく示されている部分だと、個人的には思う。そして、この類の仕掛けが、スケールが大きいものもそうでないものも含め、作中には幾重にも張り巡らされているのである。
 普通、こういう言語遊戯系のお話というのは、非常に離人症的な感覚を読み手にもたらすものである(先ほど挙げたバロウズしかり、おそらく多くの読み手が同種のものとしてイメージするだろうルーディ・ラッカーのSFしかり)が、『遊星からの昆虫軍X』は、不思議とヒューマニスティックな温かみを失わない。それは言語遊戯を仕掛ける話の土台が古典的なコミックノヴェルだから、という単純な事実から来るものなのかもしれないが、個人的には、それ以上の何かが潜んでいると思う。そして、その何かは、少なからず検証に値するものであろう。


 ああ、あと全体に充溢するアナーキズムとギャグのセンスも素晴らしい。ついでみたいだが、ここ、とても重要。最も重要。