『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷』反響一覧(その2)長文編

 続いて、長文で読める書評を紹介させていただきます。山野浩一さんの「多機能型評論集」という評に我が意を得たり、です。

「多機能型評論集」(「山野浩一WORKS」2017年5月27日)
 岡和田晃の第2多機能型評論集。第1と同装丁で色違い。太帯にぎっしり文字が書かれていて、難しそうだな、面倒そうだな、と大半のヒトは思うだろうが、ま、本当に面倒なところもあるのだろうと思うけれど、ゲームから、世界情勢から、ゲリラの理論から、文学論まで、抜き差しならぬ結びつきを語るにはそれぞれ独自の主張を崩すことなく、それぞれの理論を複合させていく以外にないのだろう。
 これは岡和田さんが独自に発見した新しい評論の手法で、マルチメディア時代に適合できる唯一の方法ではないかとも思う。1巻目と共通のテーマが扱われる場合にも、すぐに繋がりを見出すことが可能で、むろん新刊ではさらに深まっていく。
 何よりも私自身の作品を論じたものには過去には見出されることがなかった発見があって、多くのことを教わることができた。岡和田さんが編纂しようとしている私の評論集もそういうものになりそうでワクワクしている。

渡邊利道(2017年6月2日)
 さまざまな媒体に書かれた文章を集めた第三批評集だが、北海道新聞文学賞を受けた前著『破滅の先に立つ』がいわゆる〈純文学〉のフィールドによったものだったのに対し、SF・幻想文学というジャンルによったもの。ブック・デザインや内容面でのコンセプトは同じ版元ででた第一批評文集『「世界内戦」とわずかな希望』の直接的な続篇的著作になっている。タイトルの通り、SF、ゲーム、幻想文学を中心的な題材とする三部構成になっているが、もちろん越境性が強く意識されており、モチーフや主題が相互に交叉する。
 SFのパートでは「ポストヒューマニズム」の概念をめぐって、伊藤計劃の作品を起点として現代社会とフィクションの結節点を抽出し、呼応する多様な作品と批評理論を横断する。巻頭に置かれた「文学の特異点」は、著者の出発点に近傍する高らかな文体と高密度の凝縮力が若さの熱気を感じさせるエッセイで、その後の文体的・形式的洗練を高めていく各エッセイを貫く問題意識を告げ知らせてくれる。
 ゲームのパートでは、多様な媒体に呼応した多様な文体で、ナラトロジーそのほかの理論的洞察と、ゲームマスターとしての経験を縦横に駆使し、〈方法〉と〈形式〉を堅苦しくならずに突き詰めていく作業が為されていて、ジャンルを超えたフィクションの可能性をひらく画期的なものになっている。
 幻想文学のパートでは、ゲーム論での議論を前提にした伝奇ミステリや異端文学についてのエッセイが完成度が高く、また個人的には「ナイトランド・クウォータリー」掲載の海外幻想ホラー小説に関する論考が凄かった。思弁的実在論という大陸哲学の新しい潮流を背景にホラー・SFの読み直しが図られているアカデミックなものとポップ・カルチャー的なものの越境的な動きをスマートに捉えたもので、「文学の特異点」の荒々しさに比較してその端正なたたずまいに批評家としての成熟を実感させられる。

岡和田 晃 著『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷』(アトリエサード発行・書苑新社発売)
荒巻 義雄(2017年6月12日)
 本書は副題どおり、〈SF・幻想文学・ゲーム論集〉であり、「第1部 現代SFとポストヒューマニズム、第2部 ロールプレイングゲームという媒介項、第3部 幻想・怪奇・異端の文学」の三部構成である。
 文筆家にとっての最大の武器は、文体である。日本SF評論賞受賞当時から、すでに文体に勢いがあったが、やや流れに無理があった。しかし、そうした欠点が払拭され、論理展開、リズム感、語句の選択など申し分ない。当時の選考委員長だった経緯もあり、自分の目に狂いはなかったと思っている。
 第2部に付いてはまったく経験がないので省くが、全体を通読した前と後では、自分の認識が変わっているのに気付く。すなわち、今現在のSFという領土の俯瞰的な情況が把握できたのだ。つまり、事典的な役割をも担っている著作であると思う。
 第1部では、円城塔の最近三部作の書評が圧巻。円城塔をまともに書評できる批評家は文壇にはいないのかもしれない。実際、『エピローグ』と『プロローグ』を読解できる人は少ないはずだ。
 注目したのは、『シャッフル航法』である。岡和田氏に言わせると、トランプと同じ52の数の宇宙へ行けるというこの話は、我田引水ではないがわたしの「緑の太陽」の影響があるというのだ。
 この書き換えをドゥルーズガタリの名著『アンチ・オイディプス』のスキゾ分析で説明しているところが凄い。(藤元著『〈物語る脳〉の世界』参照)
 さらに、わたしなりに気づいたことがある。岡和田氏が指摘したとおり、「緑の太陽」の〈カルナック航法〉は無からエネルギーを得る独自の航法であるのだが、あれから50年、今では虚空・無にも〈真空のエネルギー〉が存在し、これが我々の宇宙を加速膨張させているのである。
 第3部の伊藤整『幽鬼の街』評もおもしろかった。わたしや川又千秋を生んだ小樽は独特の街である、実は関東大震災前後、あの滝口修造が小樽にしばしば帰省(姉が文房具店)していた。(小樽文学館、滝口展で判明)
 しかし、わたしも書いたが、滝口のシュールレアリズへの着想は蘭島海岸滞在の折りだったのではないか。となれば、第1部の藤元登四郎著『「物語る脳」の世界』にも関連があるし、SFの最も重要な概念の一つが、藤元氏の言う〈脱領土化〉なのである。
 あえて言うが、構造主義からポストモダン、さらにポストモダン以後など現代思想に関する無知は、SFを衰退させる要因となるだろうと考えている。

 東條慎生(2017年6月22日)


 SF、幻想文学、ゲームの三ジャンルを扱っているけれども、ゲームがSFと幻想文学をつなぐものとしてあるように、たとえばゲームの部にもSFの書評が入っていたり、SFの部の論文にもロールプレイングゲームの議論が展開されていたり、それぞれ相互嵌入していて微細な連繋が図られている。
 収録文章は短いものが多いけれども、その分内容が詰め込まれていて、想像以上に重量級。それでいて、文学寄りの文章は丸一冊別に去年私家版が出されている。ジャンル横断的な評論スタイルはそちらに入った図書新聞文芸時評が見やすい仕事だけど、ここでも理解しがたい守備範囲の広さが味わえる。
 金田一少年の事件簿ダンジョン飯についての記事や、ライトなゲーム入門記事、短い書評、ロールプレイングゲームのレビューなど、軽く読みやすいものから巻頭の重量級の一本まで、読んでみると、硬軟取り混ぜた編集スタイルによる多ジャンルの媒介そのものが著者の試みだということがわかるはず。

本橋牛乳(2017年6月24日)

 岡和田晃の「世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷」(アトリエサード)も読みました。中身ぎっしりの評論集です。SFもTRPGも同じ器にてんこもり、です。

 微妙に、読書傾向がかぶるところがあって、そういう関心もあります。具体的に言えば、ニューウェーブSFとヌーボーロマンでしょうか。その一方で、ぼく自身はTRPGはやらないし、現代日本SFもあまり読んでいないので。でも、伊藤計劃円城塔は読んだか。

 たぶん、そこで共通するのは、戦うということなのかもしれません。現状に対抗するものとして、そこにある、というのでしょうか。じゃあそれがどういうことなのかというのは、説明しにくいのですが。ただ、保守的な現状があって、カウンターとしてニューウェーブSFがあったし。そして現在の日本においては、目の前の不条理な政治もさることながら、時間軸をともなった不条理さもある、そういったものも含めて、現代SFに何かしら反映されている、ということもいえるのでしょう。


参考;本橋牛乳(2013年11月28日)
 岡和田晃の「「世界内戦」とわずかな希望」(アトリエサード)を読んでいるところです。評論集ですが、起点は伊藤計劃。ぼくとしては、伊藤以外の日本SFをあまり読んでいないのですが。伊藤の「虐殺器官」で描かれた世界が、世界内戦っていうのは、多分、現代の戦争というのが、その戦争を国家間の紛争ではなく、世界の中の国々の内部の都合で展開されている、というような状況なのかもしれません。冷戦がなくなったのに、紛争は続く、という状況ですね。希望はないですね。戦争が希望だったりもすると、救われませんが。

 で、辺見庸は、今の日本を戦時だとするのだけれども、それは岡和田の見方をつなげていくと、その通りだな、と思います。

 そもそも、現在の日本は尖閣諸島などの領土問題があるように見えます。けれども、こうした領土問題は、中国との紛争の可能性よりも、このことを口実に外部に敵を想定させ、国内を戦時下において、政権の求心力を高める、ということに使われています。それは、米国の中東などへの派兵、侵略なども同じです。

 戦時であるというロジックで、いろいろなものが簡単に切り捨てられる、そう思います。

 そうした中で、確かにSFは、そもそも思考される未来の形を描いてきました。ディストピアSFが描く未来は、けれども人間が進歩しなければそうなるというのは、帰結としてあります。

 岡和田が取り上げるSF作品は、例えば2000年代に描かれるものとしては、そういった気が滅入るようなものになる、ということなのでしょう。

 けれども、岡和田はこの本の第2部で、先行する世代を取り上げます。J・G・バラードを起点に、山野浩一、藤枝静雄、笙野頼子。そして原発に関連したノンフィクション。

 ということで、思い出したのは、3.11の風景で忘れられないのは、浜辺に数百数千もの死体が打ち上げられた光景です。実際に見たわけではありません。ラジオのニュースで繰り返し、海岸にそれだけの死体があるという情報が伝えられている、と報道されたときの、頭の中のイメージです。それを、終着の浜辺だというつもりはまったくありません。

 もちろん、バラードが上海で収容所にいた後、原爆の光を見たことと逆転するように、福島県浜通りの人々は、原発事故を契機に、避難所にのがれ、仮設住宅で暮らすしかなかった、それをある種のユートピアのように語ることもぼくにはできません。