カルロス・フエンテス『セルバンテスまたは読みの批判』


 カルロス・フエンテスの『セルバンテスまたは読みの批判』を読む。これは9年前に一度、読んだことがあるはずだったが、細部を忘れていた。大江健三郎の『憂い顔の童子』にて、キーとなる書物であることを思い出し、ゆっくりと再読してみた。


 「読みの批判」という通り、『ドン・キホーテ』をはじめとしたセルバンテスのテクストから、テクストの外部(社会状況、言語的な広がり、モチーフから導き出される歴史的背景)へと想像力の翼を広げていく。どこか、フェルナン・ブローデルの『地中海』に似た問題意識を感じるのだった。
 実際、『地中海』では、セルバンテスの『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難』(セルバンテスの遺作。死の直前に脱稿された。『ドン・キホーテ』の読者としては驚くべきことに、いわゆるキリスト教的騎士道物語である)がいきなり言及されたりする。


 ともあれ、イメージの広がりが心地よい批評である。

 この『セルバンテスまたは読みの批判』は中央公論社から出ていた「海」という伝説の文芸誌に連載されていたもの。単行本は82年に初版が刊行された。
 同時代の社会状況から察するに、「海」ということは、やはりフエンテスの読みは、80年ごろからバブル崩壊あたりにまで台頭した「批評家が偉かった時代」(いまはその名残りが変な方向に働いている)の先鞭を切ったかのように受容されたのであろう。


 ただし、いまでは批評家なる存在は、単なる広告マンとなっている。
 そもそもフエンテスも、批評家ではなくて小説家。
 実際、河出の池澤夏樹版世界文学全集には、フエンテスの『老いぼれグリンゴ』がラインナップに入っていたりする。そして困ったことに、こうした小説家的な観点の方が、圧倒的に面白いのだ。


 となると、むしろ批評に小説家的な読みの方法を恢復させ、批評が陥りがちな、受験勉強的に「正確」な読解を一度離れる裏づけとして、つまりは細部のみずみずしさを「殺さない」姿勢へ再度焦点を当てるためのきっかけとして、『セルバンテスまたは読みの批判』は再読されるべきなのではないか。
 少なくとも、自閉的になりすぎている批評の回路を〈外〉に向け直す必要はあるだろう。この〈外〉というのは、「お金」という意味ではない。
 そう、ぼんやりと考えた。


セルバンテスまたは読みの批判 (叢書 アンデスの風)

セルバンテスまたは読みの批判 (叢書 アンデスの風)