「笙野頼子ばかりどっと読む」のPanza(id:Panza)さんが、笙野頼子の一神教問題について語ってらっしゃいました。
時間がなくざっくりとしか説明できないのですが、つまり、「浸透と拡散」が進む現状、対抗策として〈個〉を大事にしすぎると、それは一神教的な考え方に近づいていく、ということです。〈個〉が受苦者=救世主、となってしまう。そうなると、(それこそ「イスラム」と冠詞がついてしまうような類の)原理主義化が少しずつ進行するわけですね。それはどうか、という話です。
一神教の源流であるユダヤ教を調べると、理論的な補強はいっぱいされている。でもすごく込み入った話なので、ここでは割愛させて下さい。ただ、現代日本に当て嵌めるためには、サバタイ・ツェヴィの棄教をモティーフにした大江健三郎の『宙返り』が役に立ちそうだと思う、とだけ言ってお茶を濁しておきます。このあたりは、いずれじっくり。
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岡田利規にその名も「わたしの場所の複数」という中編があります(『わたしたちに許された特別な時間の終わり』所収)。
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『わたしたちに許された特別な時間の終わり』には、「三月の五日間」というイラク侵攻の夜に、ホテルでセックスに興じるカップルを描いた短編がカップリングされています。
カップルが性行為に興じるのは、「戦争」という大きな物語の相対化(「戦争」でさえ、自分たちとは関係のない、あるいはベタな物語として消費されてしまう)のためだという読みが多いのですが、僕はこれはテスト前に慌てて片づけをするのと同じ理屈で、ある意味、追い詰められているがゆえの逃避に近いものがあると思っています。
ボスニア紛争のとき、サラエボでは、スーザン・ソンタグがサミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』を上演して、空襲のさなか大入りの客を集めたと言いますが、「三月の五日間」はこのエピソードを参考にしているのではないか、と思った次第でした。
つまり、ホテルにこもってセックス三昧のカップルは、いわばゴドーを待っているのです。
問題は、ゴドーが来るのか、来るとしたらどこに入るのか、ということでしょうね。
ベケットは意地悪なので、待っていることこそが岡田の言う「特別な時間」で、いざゴドーが「到来」したら、もっと酷いことになるかもしれません。ジャック・デリダは、『法の力』で、そうした「到来」を恐怖しました。なぜ恐ろしいのでしょうか? それは、「救済」と「破滅」は紙一重だからです。このあたり、佐藤哲也の『妻の帝国』が非常に詳しく突っ込んでいるように思っています。
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こうした苦しい立ち位置に対し、いったいどのようなリアクションが(文学的には)可能なのでしょうか。いや、これはPanzaさんへの問いというよりも、ほとんど独り言みたいなものですが……。