懺悔

 神保町の岩波ホールでテンギス・アブラゼ監督の『懺悔』を観る。

 これは1984年に公開されたグルジア映画なのだが、結論から言えば「アタリ」だった。
 つい最近まで、ロシアとグルジアの間では激しい戦闘が行なわれていた。現在は、パレスチナ情勢が急激に悪化したので(日本での)報道が極端に減り、うやむやになった感があるうえ、そもそもグルジア戦争についての日本語で読める文献も少ない。にもかかわらず、コーカサスの国際情勢は根が深く、ちょっとやそっとの理解では覚束ないところがある。


 1月31日に発売予定の「Roll&Roll Extra Lead&Read Vol.4」に、ガンアクションRPGガンドッグゼロ』のリプレイを書いた。舞台をロシアとコーカサスに設定した都合もあり、ロシアとコーカサスの政治について根本から調べ直したのだが、それでも旧共産圏で〈何が問題とされていたのか〉は非常に見えづらい。
 しかしながら『懺悔』を観れば、旧共産圏の諸国において何が問題とされ、何に抑圧されていたのかが内側から伝わってくる。


 『懺悔』のストーリーは非常に単純だ。とある街の市長ヴァルラムが死んだとの報が流れる。その報を目にした女性ケテヴァンは、夜分、繰り返しヴァルラムの墓を暴き、彼の遺体を人の眼に曝すのだ。その都度、ヴァルラムの遺体は墓に戻されるが、三度目に墓を暴いた際にケテヴァンは警察に逮捕される。法廷でケテヴァンは、少女時代に垣間見たヴァルラムの本当の姿について告発する。ケテヴァンは事実上の独裁者として振舞っていたヴァルラムによって、父親を殺されていたのだ。興味深いのは、この告発は、旧共産圏が強いていた独裁についての歴史的な反省と同義であるということだ。
 明らかにヴァルラムは、グルジア出身のスターリンに準えられている。いや、スターリンを極端にカリカチュアして、何度もクローズアップしているうえ(その演出は悪趣味すれすれだ)、(本国での公開時)『懺悔』のポスターでは、ジョージ・オーウェルの『1984年』に登場するビッグ・ブラザーにも似た様子に描かれていることからも、スターリンという固有名よりも、独裁の象徴そのものとして取り上げられているのは間違いない。すなわち、スターリンという固有名へ問題を還元するのではなく、スターリンのような独裁者に対する反省を促がすために、ヴァルラムは造形されているということだろう。


 加藤典洋に『敗戦後論』という優れた論考があって、そこには太平洋戦争の死者を悼むことについての必要性が語られる。しかしながら『敗戦後論』を巡る議論の多くにおいては「何をしたら死者を悼むことになるのか」という馬鹿げた議論が行なわれた(今でもしばしば行なわれる)。
 あえて私見を言えば、歴史を反省するとは必ずしも政治的な立ち居地ではない。反対に、私たち個々の実存に関する問題なのだ。私たちが接触する文化圏が、過去どのような痛みを他者に与え、反対に自らが背負わざるを得なかったか。ものを考えるにあたっては、まずはそのような場所から思考はスタートしなければならないということだろう。
 和田春樹に『私の見たペレストロイカ』という、ゴルバチョフ時代のロシアの(主に知識人階層を動向を中心とした)好著があるのだが、そこでは『懺悔』という映画が非常に重要な要素として紹介されている。

 プーシキン広場の映画館「ロシア」の小ホールは満席であった。
 明らかに、スターリン、ベリヤとみえる独裁的権力者の罪と、それを正当化し虚偽で覆い隠そうとするその子の世代の新たな罪を鋭く提起した、方法的にも前衛的なこの映画を国民にみせることで、保守的名精神態度に衝撃を与え、揺り動かそうという政策意図が働いていたように見える。

 政治に活用、というとよい印象を受けないが、いま観るとこの映画はプロパガンダ色はない。反対に、負の歴史を背負った個人は、どのように救済されるのかという実存的・宗教的な意識の方が前面に立っているように見える。その意味で、まさに映画『懺悔』は文学そのものだ。
 ロバート・ダーントンの『壁の上の最後のダンス』を参照すると、旧共産圏の市民の多くが文学に対して極めて貪欲であったことが窺えるのだが、グルジアやロシアでこの手の映画が政治的に機能したとすれば、それは市民がイデオロギーに洗脳されるのではなく、イデオロギーを批判的に検証しようとするような文学的な問題意識を強く有していたからではないかと思えてならない。この映画はあまりにも生真面目な創りになっているのだ。「映画」による政治的動員、あるいはプロパガンダの手法を観ようとこの映画に当たると、拍子抜けすることは間違いない。


 映画『懺悔』では、過去の罪に向き合わず日和見主義的にその日を生きる父親に反対し、独裁者の孫が自ら命を絶つシーンがあるが、例えば『エデンの東』のような父子対立の映画と比べると『懺悔』の閉塞感は圧倒的だ。それは歪んだ自意識が作り出した出口のなさではなく、社会が必然的にもたらした出口のなさでしかない。この映画を観たペレストロイカ期のロシア人は、おそらく袋小路に追い詰められた心境になったことだろう。権力を手にした祖父の世代は告発され、父の世代は過去の罪を直視できず、無垢な息子の世代は罪を過剰に背負って自殺を余儀なくされる。この罪の三層構造とでも言うべき状況は、例えば野間宏の『崩壊感覚』などに顕著な戦後文学の問題意識よりもはるかに辛辣だ。しかしながら、辛辣であるがゆえに楽しめるとも言える。
 私は宗教による救済を信じていないが、それゆえ最後で語られる「教会に通じない道が何の役に立つのですか」というメッセージをはるかにシニカルに受け止めることができる。つまり救済を希求する病理の原因そのものを垣間見ることが出来たように思えるのだ。そんじょそこらのうわついたエンターテインメントよりも遥かに斬新だ。


 この映画は日本人の、しかも20代以下の世代こそが観るべきではないかとすら思えたのである。愚にもつかない歴史修正主義、あるいは歴史修正主義を積極的に容認しようとする破廉恥な言説が蔓延する現状ではなおさらだ。
 岩波ホールの上映だけではなく、ぜひ地方でも上映するなりDVD化するなりして、より広い視聴者がアクセスできるようにしてもらえればと思う。それだけの価値はある映画だ。


岩波ホール(2月20日まで)
http://www.iwanami-hall.com/

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