『ウォーハンマーRPG』、ナラトロジー、そして自由(その3)

短期集中連載:『ウォーハンマーRPG』、ナラトロジー、そして自由


■0、はじめに
■1、『ウォーハンマーRPG』第2版の構造
ブログの過去記事をご参照下さい


■2、仮説:『ウォーハンマーRPG』は『クラシックD&D』(+ミスタラ世界)の正嫡?
ブログの過去記事をご参照下さい


■3、換喩的想像力とフレーバーテクスト


 ▼「換喩」とは
 さて、この「もととなる世界観」が明白な形で、一部だけ『クラシックD&D』の世界観に移植されているというものの見方は、文藝批評の用語では「換喩」と言います。
 例えば、大江健三郎の小説には、「評論家の迂藤」という人物が登場しますが、これは『成熟と喪失』という著作で知られる批評家「江藤淳」が元ネタになっています。しかし見ればわかる通り、両者は一字しか違いません。読者は皆、「迂藤」が本当は誰を指すのかをよくわかっているのではないかと思います。
 すなわちあからさまに参照元を示すことで、実在の要素を虚構として取り入れる際に、まったくのフィクショナルな存在にするのではなく、参照元を明らかにすることである種の文脈を受け手と創り手の間にもたらすこと。よい意味での「ずらし」の効果をもたらすこと。元ネタをさらに面白いものに味付けすること。それが「換喩」の効果です。


 ▼『AD&D』の参照軸
 『AD&D』や『クラシックD&D』は、神話や歴史、あるいは文芸の流れとゲームという新しいジャンルを接続するために、多分に参照軸を神話や歴史、あるいは古典文芸に求めます。
 『AD&D』のパラディンを演じるには、やはりアーサー王やローラン、シャルルマーニュについて何らかの知識を有していることが望ましいものでしたし、『AD&D』というシステム自体、「擬似中世再現ゲーム」といった側面がありました(蛇足ですが、この「中世を再現する」という行為は、『AD&D』を単なる戦闘のシミュレーション以上のものに仕立て上げている「何か」にほかならないものでした)。


 ▼「換喩」としてのヨーロッパ社会史
 そして、『クラシックD&D』と『ウォーハンマーRPG』は、「換喩」として「中世〜ルネッサンス期のヨーロッパをベースにした世界史的な背景」を共有しているという点において、共通するものがあると言えます。
 とりわけ、『ウォーハンマーRPG』のサプリメント『魔術の書:レルム・オヴ・ソーサリー』以降を参照すると、その傾向は顕著です。
 『魔術の書』で語られるのは、言うまでもなく「魔法」の概念ですが、RPGでは往々にして過剰に数理的なものとして処理される「魔法」が、原理的な側面からきちんと、データの羅列のみではなく散文的に解説されます。


 ▼フレーバーとゲーム性は無関係か?:「換喩」の実例を通して考える
 実際にルール的な側面を見ても、『魔術の書』の大半はフレーバーから成り立っており、そのフレーバーには非常に奥深い記述がなされているがゆえ、マスターの運用次第では、魔法システムを従来よりも自由に、ひょっとすると(やや大仰な喩えをすると)『ビヨンド・ローズ・トゥ・ロード』のように活用しても問題ないのではないか、という気にすらさせられます。
 抽象的な説明だとわかりづらいので、具体的に『魔術の書』から引用を行なってみましょう。

 “万物の始まり”よりなお以前には、“時間”も、“物質”も、“次元”も、一切存在することがなく、ただ、それらにつながる無限の可能性だけがあった。ほとんど一切が存在しない状態では、およそいかなることでも可能になるからだ。“無限の可能性”は、そのようにして自己の存在に気づくなり、森羅万象と、それに平行して存在するあらゆる次元界を作り上げた。
 “時間”や“物質”、“次元”が、“認識されたもの”の物質的な母胎の中で膨張していくうちにも、“可能性”は、それらと足並みをそろえて、いまだ“認識されざるもの”の超自然的な母胎の中で成長していた。あらゆる創造が、成長の可能性をともない、“形成とその過程”がさらに複雑化する可能性をともなった。
 時宜よく、“創造”が、おのがうちに“生命”があることを自覚し、すると“生命”は、“知覚”を生みなし、“知覚”からは“意識”が生じ、“意識”からは“知性”が、“知性”からは“概念”が、そして次には“言葉”が生じ、“言葉”は、あらゆる物事を“概念”の中にまとめあげた。
 かくして、“言葉”が新しい“概念”を作り出し、新しい“概念”が“知性”を増進し、増進された“知性”は“意識”を深め、深められた“意識”は“生命”をいっそうあまねく知ることとなり、“知覚”は、“認識されたもの”に属する万物の“形成とその過程”を理解することで、あらゆる“認識されざるもの”がもつ生の“可能性”に波及するまでに至った。


(『魔術の書:レルム・オヴ・ソーサリー』より、「テクリスの一文」)

 ここが、『魔術の書』に記された、散文による魔法の仕組みを解説するにあたり、最も特徴的とされる部分です。ここの「テクリスの一文」がいちばん近いものは、18世紀の思想家フリードリヒ・シュレーゲルの「宇宙生成論」ではないかと筆者は理解しています。
 やや専門的ではありますが、彼の論文『哲学の展開』を引用することで、「テクリスの一文」との類似性を確認してみます。

「(1)「世界ないし生成の総体は自我である」−ここで言う自我とは、宇宙の微細断片である有限的自我の源泉、無限の根元的自我としての「世界自我」である。宇宙はこの根元的自我の無限の生成発展の総体である。一切は唯一無限の生成の永遠である。「世界は体系でなく歴史である」−「宇宙生成論」、すなわち「世界と自然を哲学に考察すること」は、「世界と自然を発生論的(genetish)に構成すること」である。


(2)「世界自我」の始源的状態。無時間的、無空間的、無意識的な漂い。
すべての創世神話と同様、この始源的状態の何時、何処、何故は問われない。それは無自覚的な「自己同一性」と「原初的空虚」のうちでまどろむ「根元的単一性」の永遠である。この「原初的空虚」を「無限の多様性と充溢」によって満たしたいという「無限の憧憬」が訪れるとき−ここでも何時、何処から、何故かは問われない−、はじめて「世界自我」は自己の「空虚」と「無限の多様性と充溢の不在」とを意識し、ここに「世界生成」の第一歩が踏み出される。」(『哲学の展開』)


フリードリヒ・シュレーゲル「宇宙生成論」)

 かように確認してみましたが、『魔術の書』の記述は、ヨーロッパの精神史的な伝統(近代魔術)を押さえながら、固有名詞だけではなく、テキスト全体のレベルで、魔術の概念を換喩的に活かすことがコンセプトとして根づいているのではないかと思います。
 そして『魔術の書』の大半(7割近く)は、データではなくフレーバーテクストが占めています。
 実際に『ウォーハンマーRPG』の呪文自体も、データだけ見ると異様に強力だったり(混沌魔術)、反対に限りなくショボかったり(似非魔術)とバラエティに富んでおり、わりと「暴れ馬」系の運用が要求されると言えるでしょう。この「暴れ馬」をうまく飼い慣らすためには、フレーバーテクストが極めて大事な要素となっているのです。
 同時に、この「暴れ馬」系の魔術運用は、シナリオに変化軸をもたらすための重要なヒントとなります。そして言うまでもなく、その裁量を支援するのが、オールド・ワールドにおける魔術の位置づけと、そこから換喩的な想像力によって確保された参照元としての(主に)ヨーロッパの社会史や精神史になるのでした。


(つづく)


魔術の書:レルム・オヴ・ソーサリー (ウォーハンマーRPGサプリメント)

魔術の書:レルム・オヴ・ソーサリー (ウォーハンマーRPGサプリメント)

【シュレーゲルの思想の概説です(『哲学の展開』は入っていませんが、エッセンスはわかります)】
ロマン派文学論 (冨山房百科文庫)

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