短期集中連載:『ウォーハンマーRPG』、ナラトロジー、そして自由
■0、はじめに
■1、『ウォーハンマーRPG』第2版の構造
(ブログの過去記事をご参照下さい)
■2、仮説:『ウォーハンマーRPG』は『クラシックD&D』(+ミスタラ世界)の正嫡?
(ブログの過去記事をご参照下さい)
■3、換喩的想像力とフレーバーテクスト
(ブログの過去記事をご参照下さい)
■4、記述と解釈・運用例
(ブログの過去記事をご参照下さい)
■5、換喩的想像力と世界構築
■6、換喩的想像力を軸に『ウォーハンマーRPG』をチューンする
(ブログの過去記事をご参照下さい)
▼物語とゲームの融合、それがRPG
筆者はRPGを「物語」と「ゲーム」が融合した芸術ジャンルの一つである、と考えています。
例えば、『Role&Roll』誌Vol.30のミニ特集「やってみよう、ゲームマスター!」、Vol.38の第二特集「うまいプレイヤーになりたい!」、Vol.42の第二特集「オリジナルシナリオを創ろう!」で筆者が提示したものの見方も、このような考え方がベースになっています。
こうした、『ギルガメッシュ叙事詩』や『オデュッセイア』の時代から連なる文芸的な伝統と、将棋やパズルに代表される競技ゲームの伝統は、「RPG」を軸にして、確かに絡まり合っているのではないかと思うのです。
▼ルドロジー
ここで注目すべきが、「ルドロジー」の概念です。「ルドロジー」とは、近代以降に新しく「発見された」ゲームというジャンルを語るために、従来の物語論的な枠組みでは扱えなかった(社会科学的な志向をベースにした)アプローチであると、筆者は捉えています。
確かに、19世紀のルイス・キャロルやレーモン・ルーセルの諸作品らの問題意識を引き継ぎいでいるジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』、アラン・ロブ=グリエの『去年マリエンバートで』、イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』、フリオ・コルタサルの『石蹴り遊び』、トマス・ディッシュの『334』など、20世紀文学の優れた達成のうち「ゲーム」的なシステム論と非常に相性がよいものは多く、それらは「ルドロジー」を介して語る方が、その特性を掴みやすい面があるのも事実です。
20世紀文学の大きな特徴として、既存の物語論的な枠組みの変革と更新への意識があげられますが、そうした認識と「ルドロジー」が有する射程とは、おそらく相通ずるものがあるのでしょう。
▼コスターの理論とナラトロジー
さて、アナログゲーム研究家の高橋志臣氏(id:gginc)は、ラフ・コスターの理論を援用して、「ルドロジー」のあり方について考察をしていました。
以前、高橋氏にラフ・コスターの理論について、簡単なレクチャーをいただいたことがあります。まずは、それを参照してみましょう。
ラフ・コスターは『「おもしろい」のゲームデザイン』という本で、私たちが「ゲーム」を体験する際に、3つの適応の段階があることを指摘しています。
それを
・〈ノイズ〉
・〈チャンク〉
・〈グロック〉
といいます。
そして、「おもしろさ」を保証するのは、「学習したいと思わせる情報のパターン」であると言います。
コスターはこれを〈チャンク〉といいます。
加えて〈チャンク〉(=ゲームを学習する過程)をはさんで、〈ノイズ〉と〈グロック〉があるわけです。
ならべるとこれは、「つまらない」「おもしろい」「つまらない」という3段階です。
ただし、最初の「つまらない」と、後の「つまらない」は、その「つまらない」の質が違う、というのが、ラフ・コスターの示した考え方です。
1.最初は「理解できず、つまらない」であり、
2.そこから「わかってきたが、うまくいかない、だから面白い」というゲーム体験に入り、
3.最後に遊び尽くし、「すべて解ってしまった、つまらない」に到るという、適応段階があるわけです。
整理すると、以下の通り。
■ラフ・コスターの「学習としてのゲーム」3段階
レベル1〈ノイズ〉:「つまらない」(ゲームを理解することができず、ゲームを学習する段階に到達できない段階)
レベル2〈チャンク〉:「おもしろい」(ゲームの構造や目的を理解することができ、しかし完全な適応には到らず、学習余地がある段階)
レベル3〈グロック〉:「つまらない」(ゲームの構造や目的をだいたい理解してしまい、もう適応・学習をする何も見つからない段階)
(高橋志臣による要約)
ただコスターの理論を読んでいくと、一見認知科学的な所見を母体にしているように思えつつも、その実体は、個人と個人の欲望が、さながら経済学のゲーム理論のように「均衡」するといった、昨今、いわゆる「Web2.0」や「アーキテクチャ」といった言葉によって語られる、共同体の形成過程を外殻から規定しようという思想に支えられているのではないか、と思える部分があるのもまた事実です。
それゆえ、RPGをプレイする「個人」の目から見ると、若干違和感が残る部分がないではありません。
ここで一度、コスターらの「ルドロジー」の思想と「ナラトロジー」(物語論)とが交わるポイントについて考える必要があるのではないかと思います。
▼認識批判
その際に重要となるのは、「ナラトロジー」の有する理性批判・認識批判という性質です。
SF評論家、田中隆一の言を観てみましょう。
田中は、哲学者ホルクハイマーの「主観的理性」という概念を援用して、近代的な人間の有する「理性」を「主観」・「客観」と細分化します。そうすることで、「主観的理性」が型に嵌まり、硬直化していったと宣告するわけです。
このとき、「主観的理性」は原理的な問い直しを要求されるのですが、その際に筆者が有効だと考えているのは、文学理論における「語り口」(ナラティヴ)の問題を問い直すことです。
この方法はすなわち、聞き手が「語り」を受容する準拠枠の大枠部分を、語り手があらかじめ(あたかも受容者という関数を[語り手が]微分したかのように)「語り口」として設定することにより、流動性を固定化させるという方法を意味します。
▼ナラトロジーとコミュニケーション
「ナラトロジー」において、「A.難しすぎる、理解できない、わからない、という人に対して、わかるためのパターン把握の手続きをガイドする。 B.もうわかった、つまんね、飽きた、という人に対して、新しい課題を発見させる。」というコスター的な二文法はさほど問題となりません。
なぜ問題ないか? Bの人については、Bの人向けの「語り口」を用意すればよいだけだからです。
「語り」そのものが破壊されてしまうくらいならば、コスター風に言えばあえて〈グロック〉(コスターの言う「わかっている。もう飽き飽きだよ」という状態)を容認しようというのが、「ナラトロジー」の考え方の基盤にあります。たとえ〈グロック〉が発生するリスクを背負ってでも〈ノイズ〉(コスターの言う「わけわからなくて興味がもてない」という状態)が起きるのをあらかじめ予防しよう、というわけです。
▼RPGにおけるナラトロジー
「ナラトロジー」の考え方が面白いのは、〈チャンク〉(コスターの言う「知的好奇心を掻き立てられ、もっと学びたいと思う状態」)というものを数理モデルによって捉えていないというところにあります。
仮に〈チャンク〉が起きたとして、その〈チャンク〉とはいったいどういう精神作用に近いのかを考えるというのが、「ナラトロジー」の方法です。そのために「ナラトロジー」においては「身体」性が重視されます。
聴衆が落語家の話だけではなく、表情、しぐさ、声のトーンなどに着目して、全体的に話を受け入れようとしていることをイメージしていただければ、「身体」の重要性が理解できるでしょう。
RPGと落語は、おそらくルールシステム(そしてルールシステムが規定する背景世界)の存在によって、その性質がまったく異なるものとなっているのは間違いありませんが、それでも相通ずるところがあるとしたら、この「身体」性の介在にあることは間違いないはずです。
(つづく)
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