瞠目せよ、世界はかくも豊穣なのだ――『グアルディア』、『スピードグラファー』、『ラ・イストリア』に観る仁木稔作品の位相について


●0、とある断絶


 「SFセミナー2009」において、「若手SF評論家パネル」の出席者たちの一部では、パネル外においても熱い議論が交わされました。しかしながら、彼らと話すうちに私が気になったことがひとつ存在します。
 それは、私が合宿企画「仁木稔と『HISTORIA』シリーズを語る」で取り上げた仁木稔氏の作品に対し、「若手SF評論家」の面々がさほど関心を示さなかったことです。例外は、横道仁志氏ただ一人でした。
 もちろん、私の紹介の仕方に問題があったり、説明の努力が足りなかったりしたことが、理解を得られなかった原因の大部を占めているものと思われます。言うまでもなく、各々の関心領域の違いということもあるでしょう。
 しかしながら、その点を反省してもなお、いわゆる「SF評論」に関心がある人間と、例えば仁木氏が追究するような作品の形には、ある種の断絶があるのではないか。かような違和感を抱かざるをえなかったのは、また確かなのです。


 おそらく、「SF評論家」たちが見ている「SF」の形と、仁木氏が見ている「SF」の在り方の間には、少なからぬ差異が横たわっているのではないか。そう思えてなりません。事実、「SF評論家」のなかには「仁木稔の作品は読んだが、正直、どうかと思う」とはっきり明言した者すらおりました。


 さすがに最後の発言者は考察に値しないでしょう。
 ですが、また一方で、仁木氏本人も、理論や批評への不信を隠そうとはしていません。以下のブログ記事の冒頭部に、そうした不信が表明されています。http://niqui.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_11d8.html
 公平を期すために、あえてここで仁木氏の意見に反論をしておきますが、別に理論や批評と「色と形がおもしろいか」とはまったく矛盾しません。
 「派閥」や「主義」を措定するような教科書的な整理作業と批評の本質とは関係はありませんし、批評と作品とはまったく次元の違う作業だとも思えません。
 なお、このあたり誤解されやすいので補足しておきますと、仁木氏ご本人の創作法を否定するつもりはまったくなく、理論と創作のありうべき関係性についての話をしています。


 例えば、ロシア・アヴァンギャルドであれば、ヴァシリー・カンディンスキーの書いた理論書などは、批評でありながら、もはや作品の領域にまで足を踏み込んでいるわけです。
 つまりある意味、理論と創作の違いは、追究される主題と表現される様式の違いでしかない。事実、批評と実作の境界にあるような作品も多くあります(スタニスワフ・レム『完全な真空』などはその典型でしょう)。


 言い換えれば、一般的に、創作の現場においての批評意識なるものは「創作を制御しようとする頭でっかちな行為」と理解される側面が少なくないようです。
 しかしながら、完成した作品が観衆に「見られ」読者に「読まれ」うるものである以上、あるいは、作品が真空から突如発生するわけではなく、常に先行する何らかの作品の圏域に従わなければならない以上、批評意識は常に作品の周囲にまとわりつかざるをえない。
 肯定的に捉えるのであれ、否定的に理解するのであれ、それを無視することは、鈍感の誹りを免れない(仁木氏の場合は、作品は批評性に満ちているので、この例に当て嵌まらないと言えますが)。
 むろん言うまでもなく、「作品」の内実に触れることなく、イデオロギーや表象のみを評価の俎上に乗せることはそもそも不健全な所行です。「作品」抜きにして表象のみが自律することは本末転倒でありましょうから。


●1、表象の奈落を越えて


 批評の多くは、作品を表象として理解することで、作品の理念を掬い上げようとします。ゆえに、いわゆる「評論家」の多くは、テクノロジー時代精神の優れた表象として「SF」、ひいては小説というジャンルの特性を捉えているようです。
 彼らが「SF」や「文学」を外部から措定する、いわゆる環境管理型権力アーキテクチャについて好んで語ろうとするのは、おそらくそのためでしょう。


 残念ながら、「メッセージ」や「時代精神」を懐胎した作品が論じやすいのは確かです。私も、自分がそのくびきから逃れられているとは思えません。
 しかしながら仁木氏のように、そうした流れからは常に自律した作品を志向する作家もまた存在し、無視することはできないでしょう。


 近代批評の流れにおいて、こうした二律背反的な事例は、少なからず意識されてきました。
 だからこそ、近代批評の立役者の一人である18世紀の美学者フリードリヒ・シュレーゲルは、ひとつの理念で全体を把捉する方法を断念しつつ、「断片は、一個の小さな芸術作品のように周囲の世界から完全に切り離され、はりねずみのようにそれ自身において完成されていなければならない」(『アテネーウム断章』206)と記さざるをえなかったのでした。
 普遍的な理論を断念することで、個々の様式の完成度を上げることを彼は期したわけです。


 こう考えると、批評が取り上げるべきポイントは、「表象」のみならず、以下の三点にまで渡らねばならないのではないでしょうか。


 一、時代精神の表象、あるいはある種のイデオロギー的な理念型を示すもの(小説が「外部」へ向けて示すもの)
 二、小説そのものの内在的な構造、細部の技術(小説が、その内在的な特性を示すもの)
 三、両者を統御する美学(以上の外部性と内部性を統合するもの)


 いわゆる「日本近代文学」や「散文詩」のようなタイプの作品は、第一の視座を主軸とします。
 そして「海外文学」や「SF」のようなタイプの作品では、第二の視座が主軸となっている場合が多いようです。
 しかしながら、これまで書いてきたように、第一の視座と第二の視座は、往々にして相互に矛盾します。それゆえ、双方を統御する第三の視座が見えづらくなってくるのは確かでしょう。
 こうした矛盾をなんとか整理しようとして、近代の美学思想や現代哲学、あるいは近現代の小説ジャンルそのものは苦闘を重ねてきました。それはある意味、自縄自縛の過程であるとも言えますが、多少なりとも歴史性や形式に対して意識的であったとしたら、避けられない事態でありましょう。


 批評が取り上げる対象を「メッセージ」や「時代精神」というイデオロギーにのみ限定するのは愚劣ですし、全体主義に批評という屁理屈は抵抗することができない、というのは諦念にすぎない。
 両者の断絶に橋を架けることは困難な作業ですが、少なくとも表象の操作に親しんだ人間が、表象以外の例をどう読んだかは記しておく必要はあるのではないかと思います。
 それゆえ、以下、私のような立場の人間がなぜ仁木稔の小説を楽しむことができているのか、その点をなるべく自分の身に引きつける形で書いていきましょう。
 仁木作品をはじめ、これまで批評の対象となりづらかった作品について考えるよすがとしていただけましたら幸いに存じます。


●2、『グアルディア』との出会い


 前章までに挙げたのような問題意識のもとに、私は仁木稔の作品群を読むための位相はいかなるものであるべきかを考えてきました。
 最新作『ミカイールの階梯』はいまだきちんと読めている自信がないので今回は言及しませんが、それ以外の作品を読むための位相について、ささやかながら、仁木稔作品の「出会い」を端緒に記していこうと思います。


 私はジーン・ウルフという作家を偏愛しているのですが、ジーン・ウルフ特集だということで「SFマガジン」2004年10月号を購入したところ、仁木氏のインタビューと『グアルディア』の作品紹介が掲載されていて興味を惹かれたのが、仁木作品との最初の出会いでした。
 インタビューのどの部分に興味を惹かれたのかと申しますと、仁木氏がシルクロードの文化史を研究されていたという点、そして『グアルディア』のあらすじと設定の部分にほかなりません。
 つまり、ラテンアメリカ文学の特性を、SF的な文法を用いながら、トールキン的な架空世界の設定として上手に落とし込んでいるような印象を受けたのです。


 私は常々、精緻な世界設定を作り上げた小説作品の評価が不当に低いことへ苛立ちを覚えていました。
 たとえば、日本文学を評価するうえでの支配的なコードは、細かな情景描写に時代精神がどれだけ表象されているのかを読み解くことです。そこではしばしば、描写が時代精神を「代弁」しているがゆえに、その小説には価値があるものとみなされます。


 しかし一方で、小説の形式そのものによって、時代精神オルタナティヴを打ち立てたり、思考実験を行ったりする作品が存在するのも事実です。後者の方が批評する者にとって分析が難しいため、敬して遠ざけられる傾向にあることは間違いありません。
 そうした状況ゆえに、多くの書き手は、設定の詰めに無頓着であるように見えます。設定を自閉的な方向へと収斂させてゆくか、あたら情報そのものを肥大化させてよしとするような流れに甘んじている。
 そこでは、小説は一種の遊戯的な空間を形成するための材料を提示するのみで、普遍的な価値を提示するためのとっかかりを持ちえないのです。


 私はこうした状況への違和感を強く抱いていました。それゆえ仁木氏の小説の設定の解説を雑誌で見た際に、ひとつの突破口があるのではないかと感じました。
 それが何であるのかを説明するために、少々迂遠になりますが、二つの優れた達成について語らせて下さい。


●3-1:『1809』について


 私は『グアルディア』に出会うまで、こうしたジレンマを超克するだけの強度ある作品には、なかなか巡り会うことができませんでした。その数少ない例外のひとつに、佐藤亜紀の小説、特に『1809』が挙げられます。


 『1809』では、それまで日本の小説(というか小説というジャンルそのもの)で描かれることの少なかった工学的(戦争における)な関心や、付け焼き刃ではない古典主義的な美学、本格ミステリエスピオナージ小説にも相通ずるところのある構成の妙による小説的な完成度の高さなどによって、逆説的に、ウィーン体制によって成立した近代のヒューマニズムにおける認識論的なパラダイムの原理を示すことに成功していました。
 そこで問われているのは、観念の領域ではなく歴史そのものの輻輳性です。観念という名の安易な救済に逃げない、その強靱さに心打たれた次第でした。
 小説の完成度を高めながら、既存の日本文学の文脈では照射不可能な観点から、虐殺の世紀たる二〇世紀の病理の原典が奈辺にあるのかを『1809』は鋭く問うていたのです。


 そのダイナミズムに気がついた際、私は震えるほど感動したのですが、同時に『1809』が体現するような批評的強度は、いったいいかなる位相において成立が可能になるのかをも考えざるをえませんでした。


●3-2:『フランドルへの道』について


 一方、『1809』とアプローチこそ異なりますが、現代小説においては、ラテンアメリカ文学の方法に、小説が歴史性を体現するひとつの結節点が存在するのではないかとも私はぼんやり考えていました。
 周知の通り、ラテンアメリカ文学の作家の多くは、ヌーヴォー・ロマンなど、文学におけるモダニズムの文脈を確かに引き継いでいます。こうした作品そのものに根づく歴史性にこそ、何らかの可能性があるのではないかと私は考えていたのです。
 ヌーヴォー・ロマンの代表的な作家であるクロード・シモンの『フランドルへの道』では、二度の大戦によってヨーロッパ的な公法秩序が完膚なきまでに叩き潰された状態が、作者自身の、一次大戦、二次大戦への従軍経験をふまえたうえで、徹底的に〈個〉の視点を通じて描き出されます。第二次大戦中に、ドイツ軍の飛行機に向かってフランス軍の兵士が(時代錯誤甚だしいことに)馬に乗って突撃し、なすすべもなく撃ち殺されるさまが、執拗なまでに描写されるのです。
 濃密な描写の過程において、もはや既存の物語では世界の意味を背負えずに解体してしまい、戦場における息遣い、泥の臭い、血の光景そのものが、かつてナポレオン時代、第一次世界大戦時、そして二次大戦時にまで連綿と続いていくさまが、神話的、叙事詩的な迫力をもって提示されます。


 『グアルディア』のあとがきにおいて仁木氏は、ラテンアメリカ文学の特性を「一が一であり、同時に二でもある」という世界観として説明していますが、けだし名言でしょう。
 この表現に倣えば、ヌーヴォー・ロマンは「一が一であること。そして同時に一が一ではないこともあること」を、極限までに追求した文学形式だったと言うことができる。
 これは、近代人が世界を認識しようとした際に生じる圧倒的な断絶、深淵から目を背けず、なんとかして真空から言葉を立ち上げようとした苦肉の策とも言えます。


 仮に『1809』が構造としての小説の極みを指し示しているとすると、『フランドルへの道』は、表象としての小説の極限を露わにしている。ならば、両方を折衷するような、理念的形式は存在しないものか。私は常に、そうした問題意識に取り憑かれてきました。


●4、ラテンアメリカ文学サイバーパンクの習合


 優れたラテンアメリカ文学の多くは、単一のトポスの総体を、ヌーヴォー・ロマン的な表象の過程を経て描き出そうとします。


 ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』などにそうした傾向は顕著ですが、ドノソが描くような単一のトポス性とでも名指すべきものを、グローバルな圏域へと拡張させていくことで、『1809』に代表される、現代の認識的な基盤へ犀利に切り込む類のアプローチを可能にすること。
 私は『グアルディア』が、ラテンアメリカ文学の流れにサイバーパンクの方法を習合させることで、こうした困難な課題へ正面から向き合おうとしているように思えたのです。


 巽孝之の『サイバーパンクアメリカ』やブルース・スターリングの『ミラーシェード』に顕著なように、狭義の物語ジャンルとしてのサイバーパンクではなく、「運動」としてのサイバーパンクは、時代の表象から背を向け自閉していく小説ジャンルを批判し、加速度的な進行を見せるテクノロジーに正面から向き合うことで、文学的な意義を追究しようとした批評的な営為でした。


 サイバーパンクの運動は、90年代前半をもってゆるやかに終息していったのですが、サイバーパンクが切り開くべきであったフロンティアはいまだに残存している。
 『グアルディア』が興味深かったのは、ラテンアメリカ文学という軸を導き入れることで、80年代のサイバーパンクがなしえなかった達成を遂げている点だと思います。


●5、習合の箍としての生物学


 実際に作品を手に取ってみて、私が『グアルディア』の設定を目にして抱いていたような印象は、よい意味で裏切られませんでした。
 最も興奮したのは、設定の細部に至るまでの綿密な書き込みの密度です。


 私が小説というジャンルに可能性を見いだすようになったのは、それが単一のイデオロギーではなく、常に複合的な視座を内包させているからでした。


 近代小説の代表としての『ドン・キホーテ』の場合は、アイロニーメタフィクション的な構造によって、近代ファンタジーのメルクマールである『指輪物語』の場合は、架空世界の自律性と、それを統御するカトリックの美学の在りようによって、それぞれ小説内に複合的な視座を取り入れることに成功していました。
 一方で、『グアルディア』の場合には、ラテンアメリカのトポス性にテクノロジーが外挿される場合において、それが、世界観を統御する因果律として、確かに機能しているように見えます。


 『グアルディア』において外挿されるテクノロジーの中心にあるのは、科学のなかでも「生体甲冑」に代表される、遺伝を軸にした生物学的な領域にあるのではないかと私は考えています。


 グレッグ・ベアの『ブラッド・ミュージック』や森青花の『BH85』では、自然の合法則性を裏付ける手段として生物学的な要因が奉仕させられているように、私には感じられました。
 すなわち、デカルト以降の哲学的な文脈で盛んに言及されていた大文字の「自然」と「人間」との徹底的な断絶とも言うべきものを、生物学の文脈を援用することで可視化させているのではないかと思ったのです。


 対して、『グアルディア』における生体甲冑は、ベアや森青花のように「自然」と「人間」との対立を意識させるような構成を取っていないように、私には見えます。
 むしろ、「自然」と「人間」のアニミズム的な同一化を示唆するための装置として、機能しているように感じられるのです。


 初めて『グアルディア』を読んだ際に、Jコレクション版のP405下段の「進化という概念自体が誤りだ、人間は、ただ変化していくだけだ」という記述が印象に残り、線を引いておきました。


 後に同じ部分を読み返した際、この記述を哲学者カントの理論に関連させて考え、いわばサイバネティックス的なものとして私は理解しました。
 カントは『判断力批判』において、「自然」の特徴を「合法則性」と定義し、一方の「人間」の「理性」の特徴を、「目的論」的なものであると定義しています。


 カントの見解に従うのであれば、「自然」は近代的な人間の理性が有するような目的意識とはかけ離れたシステムとして自己完結していることになるのですが、そうした近代哲学が明らかにした自然の合法則性とでも言うべきものを、しばしば「理性」では捉えがたい土俗性の表象――いわゆる宗教史的な観点や「マジック・リアリズム」の方法をもって把捉するべきだとされているもの――をSF的なダイナミズムをもって『グアルディア』は再構築させようとしているのではないかというのではないかと感じました。


 小説全体の構造的な機能から見れば、現代のラテンアメリカの政治的な情勢にも通じるところのある軍事的な側面において、「生体甲冑」がきわめて重要な位置づけをされていることが窺え、小説の細部の描写においては、「生体甲冑」の戦闘シーンにおける暴力描写(Jコレクション版『グアルディア』P292)のドノソ的なまでの土俗性において顕現しているように思えます。


 そして、「充分に発達した魔法は、科学と見分けがつかない」。『グアルディア』内では、さりげなくこのクラークの第二法則が差し挟まれます。
 ジーン・ウルフの諸作品、マイクル・スワンスウィックの『大潮の道』など、クラークの第二法則を意識したSFは多く存在しますが、『グアルディア』では、生物学的要因に習合の核としていることで、知性機械に連結するところの生体端末といったサイバーパンク的・テクノロジー的要素(特にコンピュータと衛星の位置づけは、ロバート・A・ハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』や、ブルース・スターリングの『スキズマトリックス』が連想されます)、ウルトラバロック、シモン・ボリーバル教といった宗教的・美学的要因が、それぞれの個性を殺さずに併存できているように思えます。


●6、叙事詩的な人間と記号的なキャラクター


 『グアルディア』を読み終えて、不思議だったのが、それこそガルシア=マルケスの『百年の孤独』のような豊穣さに道満ちていたように思えながらも、思い返すと、JD×カルラ、アンヘル×ホアキンというペアのキャラクターの対立構造が際立っているように思えたところです。
 これは『百年の孤独』のように、脇役であるメルキアデスなど特異な個性を除いては、どの人物もある種の凡庸さを背負わされている小説との大きな違いであるでしょう。


 世界観の細部が、寓話性を取り払った形で、それ自体が独立するような形で徹底的に書き込まれているにもかかわらず、物語の焦点がこれら登場人物の神話的(あるいは、バロック時代の悲劇のような運命劇的)な側面に焦点が当てられるように思えました。
 「アンヘル」が(カッコつきですが)天使のことだとすぐに気がついたせいも、あるかもしれません。


 『グアルディア』の出版年度は、批評の文脈で言うと、文学における大文字の「人間」には死刑宣告が下され、代わりにグローバル経済の原理と相性がよく流通しやすい「キャラクター」という記号的な類型が、慢性貧血気味の文壇に風穴をあけてくれるのではないかと期待されていた時期とちょうど重なります。
 ライトノベルが批評的な評価の土壌にあがるようになったのも、ポストモダン思想と相性のよい、こうした時代の風潮によっていることは言うまでもありません。
 が、どうしてもライトノベルの文脈で『グアルディア』を捉えることには違和感が残ります。


 正直に告白すれば、最初はアンヘルのキャラクター造形が、CLAMPの『X』あたりの漫画からの引用ではないかと見たこともありました。
 ラテンアメリカ文学サイバーパンクというフレームに、キャラクターを落とし込むということ。ウィリアム・ギブスンの『あいどる』などの実例を鑑みれば、こうした方法を用いることで、作品世界に位相のずらしをもたらす方法としては機能的な側面もあるように思えるのです。
 実際、伊藤計劃氏の小説だと、B級映画監督のウーヴェ・ボルなどといった表象がシリアスな描写の内にさりげなく差し込まれることどで、語られた作品世界があくまでもフィクショナルなものであることを指し示しつつ、実在の世界と情報によって構成された仮想世界の二文法が常に揺らがされるという仕組みになっているわけです。


 こうしたミスマッチによって得られる読みの可能性を追求させることで、ある種の「キャラ立ち」が意識されているのではないかと、私は『グアルディア』のキャラクター、特にアンヘルとカルラの造形を見て思っていたのですが、どうもそれだけでは違和感があるし、ライトノベル批評的な文脈からも逸脱しているように見えます。


 総じて「キャラクター」という概念は、近代的な「内面」を有した人間像をあえてカリカチュア化し、ひとつの属性のみスポットを当てることで、言説の空間における流通性を向上させようとした試みであると見ることができるでしょう。
 ですが、『グアルディア』のキャラクターは、どうも単一のコードのみで書かれているように見えません。記号的なように見えて、キャラクターに付与された属性を裏切る活動を平気で行なったりしている。これはむしろ、叙事詩や民話の登場人物が取るような意味での不条理さに近いのではないかとすら思えてくるわけです。
 しかし一方で、物語の運びが、JD×ホアキン、カルラ×アンヘルといったように、キャラクターをそれぞれ対にして理解させているように思えてくる。こうした対立構造が二組生まれるという構成は、あまり叙事詩や民話などでは見ませんが、それゆえ独創性を感じた次第です。


 英雄を語る理論的な書物としては、『ミカイールの階梯』でも引用されている、ジョゼフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』が知られています。
 この書物は、いわゆる通俗的な読まれ方では、ジョージ・ルーカスが大学時代にキャンベルの講義を聴いて、その影響下において『スター・ウォーズ』のプロットを組み立てたという解釈が取られ、物語のパターンをデータベース化してたやすく共有可能なものにするといった理論の先駆者のように語られていますが、実際にキャンベルの著作に触れると、記号論的な意味での把捉が非常に難しくなっているものと思います。
 相互に矛盾し、時には理解しにくいものである神話的なイメージをキャンベルは的確に分類しているのですが、そこから記号的な「キャラクター」へと飛躍させることにはどうにも違和感が残ります。



●7、『スピードグラファー』と世界内戦


 キャラクターについての話が出たので、ここで仁木氏の第二作、『スピードグラファー』について話を進めましょう。


 私は原作のアニメーションは見ておらず、どちらかといえば細部への詰めを期待してノベライズを追ったタイプの読者です。
 実のところ『グアルディア』を所読した際には、その構造がよく見えないところがありました。ならば、比較材料として、よりクリアーな書き方が求められるノベライズのような小説がどうやって料理されるのかを調べてみようと思ったのです。


 『スピードグラファー』と同じくノベライズである伊藤計劃氏の『メタルギア・ソリッド・ガンズ・オブ・ザ・パトリオット』では、既存の『メタルギア』シリーズのエピソードを、スネークというキャラクターを軸に凝集させるという、どちらかといえば物語論的な問題意識によって書かれたのではないかと、読んでいて思いました。

 一方、『スピードグラファー』を追って面白く思えたのは、『グアルディア』で引っかかった(面白くなかったという意味ではないです)「キャラクター」という問題系がどう処理されたのかな、という部分に関心があったからです。


 『スピードグラファー』を読んでから『グアルディア』を読み直すと、引っかかっていた「キャラクター」の問題に、技術的な必然性があるとわかりました。すなわち、『スピードグラファー』でのキャラクター造形に、ある種の神話性が意識されていたのではないかということです。『スピードグラファー』は多数のキャラクターが登場して、それぞれの書き分けがきちんとなされています。
 類型的な悪役であるところの総理大臣や官房長官でさえ、きちんと性格の差異が示されていて、なおかつ戦闘シーンでの暴力表現の文体がひどく魅力的です。
 私は小説の暴力表現の是非についてにはうるさいところがあり、『グアルディア』後半のJDの戦闘シーンなどにあまりリアリティを感じられなかった部分があるのですが、そうした特性が半ば意図されたものであることがわかりました。


 また、『スピードグラファー』を読んでから『グアルディア』を読み返すと、個人間の暴力行為ではなく、より大きな「戦争」というスケールについて考えざるをえませんでした。
 現代において、批評理論で戦争というフレームを理解するのは非常に難しい行為です。
 なぜならば、仁木氏が『ミカイールの階梯』の後書きで語っているように、戦争は既存の言説のフレームをやすやすと乗り越えるからです。


 こうした、もはや既存の規範的な物差しでは計ることのできない事態を、ドイツの公法学カール・シュミットは「例外状態」と呼びました。
 こうした「例外状態」が、二度の大戦以降、国家間の総力戦というモデルのではなく巨大な内戦=世界内戦というレベルにまで発展した事態をシュミットは『パルチザンの理論』という書物で語っているのですが、神話的なキャラクター同士の戦闘と、軍隊レベルでの交戦状態がうまく併置されている『グアルディア』は、シュミットの言う「世界内戦」のモデルに近いものがあるのではないかと思った次第です。


●8、『ラ・イストリア』と「テクノゴシック」


 私は『ラ・イストリア』は買ってしばらく積んでありました。
 生半可な姿勢では読むことができなかったからです。文体の変遷はすぐに感じましたし、「グリンゴ」という言葉からすぐさまフエンテスを連想しましたが、『ラ・イストリア』を読んで最も気になったのが、これが非常に優れた「テクノゴシック」長編だということです。


 「テクノゴシック」という言葉は聞き慣れないかと思いますので、もう少し詳しく解説させていただきましょう。日本において「テクノゴシック」という言葉をうち立てたのは、小谷真理氏です。
 小谷真理氏は『テクノゴシック』という批評集で、ウィリアム・ギブスンがストーム・コンスタンティンという女性作家の著作を評して何気なく口走った「彼女はテクノゴシックだよ」というコメントから「テクノゴシック」というタームを拾い上げ、ユビキタス社会の高度化に伴う離人症的な社会状況と、ゴシックロマンス的な退廃の美学が、ある種の地平で交錯しているような文化的状態を示しました。
 

 ただ、小谷氏はギブスンの作品にではなく、ストーム・コンスタンティンや(同じくサイバーパンクの文脈で登場した)エリザベス・ハントの作品にこそ「テクノゴシック」の本質を観ているようです。
 ギブスンにはなくて彼女らの作品に顕著な要素、それは「ジェンダー」への目配せです。例えば、ストーム・コンスタンティンの短編『無原罪』では、ギブスンの『あいどる』をさらに先鋭化させたような、ヴァーチャル・アイドル像が描かれ、これは『ラ・イストリア』の生体機械の受胎の問題にも、相通ずるところがあるのではないかと思います。


 ギブスンの著作が、ヴァーチャル・アイドルというイコンを通じて、人間性揚棄によってもたらされたテクノロジーのパラダイスが最悪の意味において時代をジャンクに空洞化してきたことを指摘するのに留まっていたのに対して、コンスタンティンの著作は「ヴァーチャル・アイドルは生殖が可能なのか?」という生物学的な問題を思弁性を廃した形で持ち込むことによって、本来はあくまで理論的な空間において語られるはずのヴァーチャル/リアリズムという問題系(「疑似人格はいかにして宗教性を帯びるのか?」)について一挙に身体的な具体性を用いて考えることを可能にしているのです。


 ゴシック文化はよく同性愛や性転換に焦点を当てるのですが、小谷氏は「テクノロジー」の無機質性をこうした性的な表徴の攪乱に重ね合わせることで、既存の社会権力によって強要される性役割を無化させようとしています。
 ただ、『ラ・イストリア』はその先を行っていて、概念だけではなく、歴史性を有した形で身体と観念、ヴァーチャル/リアリティという二文法を解体しているように見えます。概念としての「歴史哲学」ではなく、より具体的で厚みがある情報の総体という意味での「歴史」です。


 先に語った「生体甲冑」、「大災厄」、「キルケー・ウィルス」というモティーフが(『グアルディア』よりも)この設定に密接に関わっていくことで、小説を統御する美学性が、よりはっきりと打ち出されているように見えます。
 この美学性を語るにおいては、エリザベス・ハントの代表作『冬長のまつり』と『ラ・イストリア』を比較検討していけば、『ラ・イストリア』が既存の「テクノゴシック」をいかにして発展させているのかを考えることができるのではないかと思っております。


●9、まとめ


 以上、仁木氏の小説を拝読して受けた印象を、私のなかで抱えていた問題系に引きつけて語らせていただきました。
 むろん、こうした私の読みの披瀝は、仁木稔作品のあくまで外郭に過ぎません。
 ただ、仮に批評的な文脈に価値があるとするならば、本稿の冒頭で上げた三つの読み方、特にジャンル内の読者には、「二、小説そのものの内在的な構造、細部の技術(小説が、その内在的な特性を示すもの)」としてのみ捉えられがちな読み方を、「一、時代精神の表象、あるいはある種のイデオロギー的な理念型を示すもの(小説が「外部」へ向けて示すもの)」へと接続させていくことで、「三、両者を統御する美学(以上の外部性と内部性を統合するもの)」の形を示すことなのではないかと思っております。


 そうすることで、冒頭で掲げたような、仁木作品に関する読みの位相のずれを少なからず修正していきながら、ひいては仁木稔の作品の系譜に連なる(あるいは仁木作品がその系譜内に位置する)作品群を、改めて批評の土壌に上げていきたい。それが私のささやかな希望なのです。

グアルディア (SFシリーズ・Jコレクション)

グアルディア (SFシリーズ・Jコレクション)

スピードグラファー1 (ハヤカワ文庫JA)

スピードグラファー1 (ハヤカワ文庫JA)

スピードグラファー (2) (ハヤカワ文庫 JA)

スピードグラファー (2) (ハヤカワ文庫 JA)

スピードグラファー〈3〉 (ハヤカワ文庫JA)

スピードグラファー〈3〉 (ハヤカワ文庫JA)

ラ・イストリア (ハヤカワ文庫JA)

ラ・イストリア (ハヤカワ文庫JA)