「早稲田文学2」に「島本コウヘイは円空だった」が掲載されています。


 長らく日記に書けませんでした。今も書くことができません。
 ビュトール講演会の際に取り上げた「早稲田文学2」に向井豊昭の「島本コウヘイは円空だった」が掲載されています。

 以下も、併せてご覧下さい。

http://d.hatena.ne.jp/Thorn/20080729

 池田雄一さんが、「島本コウヘイは円空だった」の解説で、

何が起きても明日があると信じつづける。亡くなる前の彼が教えてくれたのは、そうした強さであった。彼のいない世界でその強さを持ち続けることができるかどうかはわからない。そのためには、これから何度も心のなかで殴り続けていくことになるだろう。

 と書かれていますが、完全に同意します。
 鎮魂になるかはわかりませんが……向井さんからいただいた『詩集 北海道』に収められている、奥様・向井恵子さんの詩「鳧舞(けりまい)その海」を、恵子さんの許可を得てこちらに転載させていただきます。
 「鳧舞(けりまい)」とは、道南の地名になります。

鳧舞(けりまい)その海


なんて長い間海に会わなかったことだろう
海に会いたかった
駆けつけて海に会いたかった


今空とぴったり同じ大きさで広がる鳧舞の海
島もなく
岩もなく
向う岸もない
海そのものだけのあらわな在り方で
一本のとびきり長い水平線だけを所有している海っきりの海
装うための季節はきっぱり断わって


――世の中の出口はここです――


あの水平線を
一本すっと抜いたら
足下から空が始まるに違いない
あゝ
ここは鳧舞の海
なんいにもないっていうのは
何ていいことなのだろう


月光仮面が海に流されちゃったヨウ
と小さな流(りゅう)が泣いている
ほっぺたを砂で濡らしながら
<それはお魚さんに貸しておやり>


それにしても流(りゅう)は
毎日海から友達を連れてくる
ひからびたひとで
角のないガラス
片っぽうだけの長ぐつ
ひものとれたヘルメット
舞の海は流(りゅう)の宝箱
家の中は匂いで泳ぎたい程だ
それでもまだ流(りゅう)は
海に走っていく
波を呼びながら


一つの波が一つの言葉を運び
次の波が次の言葉をひとつ運ぶので
ふりかえると
世の中には理屈がひしめいて
私たちは傷つけ合うことに慣れてしまった
だから都会の海は
十字架のような
テトラポットを無数に並べたてて
ここからが海です
と決めてしまう
決めないと不安でたまらないから
世の中が
どっぷり海に還っていくかもしれないから


テトラポット
どれもこざかしい人間の
知恵の形をしている


やがてこの鳧舞の海にも
あのテトラポットが立ち並ぶのだろうか
――世の中はここまでです――
といって
海を閉じこめようという
あさはかな手段で


舞の海はいい
何もないのがいい
島もなく
岩もなく
向こう岸もない


けれどもこの砂浜に
かもめがみんな海の方を向いて
並んでいるのだから
やはりそこには何かがあるのだろう


ああ
私はここから海に犯されたい


(『詩集 北海道』、文林堂印刷、1982)


 なお『詩集 北海道』は、向井豊昭の創作の重要なモティーフになっている、祖父・夷希微の詩作品に、豊昭・恵子夫妻の詩を加えて出版されたものです。


 簡単に同書と「鳧舞その海」についての私見を添えておきましょう。


 私は上京するまでの18年間、北海道の片田舎で生活をしてきました。
 そのなかで痛烈に感じてきたことは、たとえ観光産業が盛んであっても、北海道の僻地が文化というものから、完全に切断されているということでした。もともと、著名なドラマの舞台となっていたり、風景写真が盛んであったり、風光明媚な土地柄を生かした観光産業は存在しているのですが、そうしたフィルターを通して入ってきた文化は、近代性によって捏造された風景のみを活写するものばかりで、言葉によってこの街の背負った歴史性を体現するものはなく、非常にもどかしく思っておりました。
 地元の火山噴火に題材をとった文学もあるにはあるのですが、ものごとをすべて単純な(通俗化された)ヒューマニズムに還元している駄作にすぎません。


 もともと私の曾々祖父は、北海道のその土地に入植してきた松前藩の一行に連なっていたと言われており、同地に神社を建てた人物の一人でありました。
 以来、明治初期の開拓時代から100年以上、私の一族はその地に住み続けている計算になります。
 アイヌの関わりについては、寡聞にして聞いたことはなかったのですが、恐ろしい貧しさを乗り越えて、北海道の冬を生き抜いてきたことは確かでしょう(「貧しさ」の話は、母からかなり聞かされました)。


 こう考えたとき、ベネディクト・アンダーソンが『想像の共同体』にて記したような、「物語」としての「近代国家」としての「ふるさと」が捏造されたという構成主義的な国家観には、北海道の地はまるであてはまらない(少なくとも、あてはまるような実感が保てない)というのがよくわかると思います。
 「近代国家」というものはやはり、単一民族による、弁証法的な歴史の産物で、そのなかに「他者」は本質的に含まれていないのではないかという気がするのです。
 たぶん、『詩集 北海道』に含まれている詩の数々にも、僕が感じたのと同じような批判的な視座が含まれると思います。 実際に向井夷希微の詩を読んでみて驚いたのは、「枕木」、「土方」、「アイヌ」などに顕著な、他者性を十二分に意識した視座であると思います。
 こうした他者性は、実のところ石川啄木にも宮沢賢治にも欠けていたものではないかと思います。
 向井豊昭・恵子両氏の詩についても、たぶん夷希微の詩を手がかりにすると、豊昭の作品の場合は「言語」、そして今回紹介する恵子の場合は「身体」という具合にきっちり分類することができるのではないでしょうか。