筑波大学理論・比較文学会講演会「アイヌならざる者の現代アイヌ文学」報告

 ニューウェーヴ/スペキュレイティブ・フィクションのサイト、speculativejapanに、筑波大学理論・比較文学会講演会「アイヌならざる者の現代アイヌ文学」報告を掲載いただきました(http://speculativejapan.net/?p=235)。
 以下、全文転載させていただきます。



 去る201年12月22日(土)、筑波大学理論・比較文学会講演会「アイヌならざる者の現代アイヌ文学」(http://d.hatena.ne.jp/Thorn/20121222/p1)が開催されました。

 speculativejapanの場をお借りしまして、簡単に概要を紹介させていただきます。概要ですので、もろもろ掘り下げが足りない部分があるかもしれませんが、本講演の内容は、現在執筆中の批評に反映させる予定ですので、あらかじめご海容ください。


 今回の講演「アイヌならざる者の現代アイヌ文学」は、学術出版社・未來社のPR誌「未来」(http://www.miraisha.co.jp/np/mirai.html?year=2012)で岡和田晃が連載している批評「向井豊昭の闘争」がらみで依頼されたものです。
 「向井豊昭の闘争」については、日本SF作家クラブ公認ネットマガジン「SF Prologue Wave」に紹介記事を掲載いただいたことがありますので、ご存知ではない方は、まずはこちらを(http://prologuewave.com/archives/1717)ご覧いただけましたら幸いです。


 講演では、連載で扱った問題の射程を、より平易に整理してお伝えすることを主眼に置いていました。
 ただし、最初に来場者の方へ意識して「アイヌ文学」とされるものを読んだことがあるかをお聞きしたところ、手が挙がったのはわずか2名でしたので、大雑把な見取り図ではありますが、まず、近代の「アイヌ文学」を一部、ご紹介させていただきました。


 取り上げたのは、知里幸恵知里真志保違星北斗の仕事です。彼らは外側から「アイヌ」が「滅びゆく民族」として規定されたなか、あるいは「アイヌ」が激烈な社会的差別を受けたなか、「アイヌ」の立場から発言していくことを余儀なくされていました。
 ですから彼らの仕事は「ユーカラ」のような口承伝統の翻訳という形をとったり、あるはメッセージ性の強い口語短歌という形式になっていました。
 このうち違星北斗については、「違星北斗.com コタン」で詳しく解説されています(http://www.geocities.jp/bzy14554/)。日本語文学の和歌の伝統とはまるで異なる書き方で、私は衝撃を受けました。ご一読を強くお勧めいたします。


 続いて「アイヌ」初の近代小説の書き手である鳩沢佐美夫の仕事の重要性をご紹介しました。鳩沢佐美夫は、三十代半ばで夭折しましたが、きわめて才能豊かな書き手で、「農村」と文学について鋭い問題意識を有していました。生前最後の小説となった「休耕」(1971年)は「アイヌ」の文脈とは関係ない作品ですが、紛れもない傑作です。そんな彼が没後「アイヌジャンヌ・ダルク」として受け取られた「状況」について、1960年代から70年代にかけての「政治の季節」における地方文芸誌の隆盛と絡めながら、遺稿集『若きアイヌの魂』(1972年)を軸にして紹介させていただきました。


 そのうえで、「アイヌならざる者」による「アイヌ文学」の代表的な仕事として、鶴田知也の代表作「コシャマイン記」の紹介に移りました。
 鶴田はまず、キリスト教社会主義を出発点とし、その後「人民戦線」誌でデビューしたプロレタリア文学の書き手として評価されました。そして叙事詩的手法を駆使し――既存の歴史認識は「和人」の観点によるものだという批評性か――史実への明確な「ずらし」を含んだ「コシャマイン記」(1936年)で第3回芥川賞を受賞。
 この「コシャマイン記」を記した後、鶴田は「アイヌ」を主たる題材とした作品を完成させることを断念してしまいます。それは、「大東亜共栄圏」から「戦後」に至る状況が、彼に「アイヌ」の問題を語ることを許さなかった、と言ってしまうことも可能でしょう。
 実際、鶴田は戦前への「反省」を籠めて、戦後は、農民文学の書き手から東北における農業問題の評論家へと転進し、小説家としては筆を折ってしまいます。

 おそらく鶴田知也が突き当たったのと同種のジレンマに、向井豊昭も引き裂かれてしまいました。「アイヌ」を語る際、「代理=表象」の問題は避けられないからで、それはどうして当事者の気持ちを勝手に代弁できるのだという「何様のつもり問題」(東條慎生)と言い換えてもよいでしょう。


 今回は、向井の作品から「御料牧場」(1965年)、「うた詠み」(1967年)、「耳のない独唱」(1969年)、「怪道をゆく」(2001年)といった代表作をピックアップし、舞台となった北海道南部(旧静内町)や東部(風蓮湖)の情景を、プロジェクターを使って紹介していきながら、この問題を掘り下げていきました。


 向井豊昭の祖父は向井夷希微という詩人でした。その第二詩集『胡馬の嘶き』(1917年)では北海道の開拓に伴う矛盾を、最も早い時期に糾弾するという離れ業を成し遂げていました。向井の「アイヌ」へ向ける眼差しは祖父から学んだところが大きかったのですが、一方で彼は、赴任した土地が北海道で最も「アイヌ」の人口が多い場所だったという事情から、「アイヌ」の子供たちへの教育に当事者として関わります。
 「アイヌ」の子どもたちがクラスの多数を閉める小学校の教師として、「同化教育」の総仕上げをしたのだと、彼は、自分を苛んでいたようです。すなわち、彼は二重の意味で「近代」にまつわる呪いをも引き受けてしまっていたのでした。


 戦前の状況抜きで鶴田を語れないように、向井は1960年代から70年代にかけての「アイヌ」がらみの文脈抜きでは紹介することのできない書き手です。実際、向井は、北海道を代表する写真家の掛川源一郎、そして鳩沢佐美夫らとも交流を持っていました。
 とりわけ70年代前半の「アイヌ革命論」に影響を受けた東アジア反日武装戦線の活動は――間接的にであれ――向井に大きな傷を残しました。
 講演では、東アジア反日武装戦線に大きな影響を与えたと言われる太田竜の『アイヌ革命論』の荒唐無稽な言説の問題点を指摘しました。それに加えて、『アイヌ民族抵抗史』で「闘争史観」を打ち出した新谷行の小説「ペウタンゲの情念」を紹介しました。向井の「怪道をゆく」に出てくる「アイヌ」の「ペウタンゲ」(言葉にならない呪詛)は、新谷のテクストに充溢する苦しみと通底しているように思われてならないからです。
 「怪道をゆく」が書かれて10年、向井が直面を強いられたジレンマは、現在、いっそう切実さを増しているようです。


 その他、今ではあまり語られない「アイヌ文学」の書き手を紹介いたしました。「怪道をゆく」に登場する歌人の江口カナメ(要)、太田竜の誘いを撥ねつけたアイヌ伝承研究家の金丸継夫の二名です。現在、彼らがピックアップされる機会がまったくなく、研究も進んでいないのは、ひとえに残念なことだと思えてなりません。


 質疑応答では、留学生の方から――向井豊昭が「ドレミの外」(2007)という小説で問題としたような――五七五七七の「韻律」について、鋭い質問をいただいたので、「アイヌ」の歌人バチェラー八重子のアイヌ語を入り混ぜた短歌をご紹介しました。
 また、別の方からは、「ヌーヴォー・ロマン」と向井豊昭のテクストの関係について問われたので、クロード・シモンの『三枚つづきの絵』(1973年)や『盲たるオリオン』(1970年)の生成論的なイメージ連鎖から、向井のテクストは学んでいる部分があるとお答えしました。
補助線として、「ヌーヴォー・ロマン」に出逢う直前の向井豊昭の仕事であるアイヌの口承伝統を擬した「千年の道」にも言及しました。この「千年の道」は「向井豊昭アーカイブ」にて、無料で読むことができます(http://www.geocities.jp/gensisha/mukaitoyoaki/sennen2.html)。


 当日はあいにくの雨天で、霧も出ており、最低気温は氷点下に達すると予報されていました。にもかかわらず、学部生、大学院生、留学生の方々がご来場くださり、また、わざわざ東京から駆けつけてくださった一般来場者の方もいらっしゃいました。
 ご来場いただいた皆さま、また、今回の講演をコーディネートしてくださった筑波大学の齋藤一先生、および企画者のNさんに、改めて御礼申し上げます。(岡和田晃