「ハイ・ファンタジー」というイメージの遍歴――映画『ホビット 思いがけない冒険』

※本稿は2013年1月9日に「限界研Blog」に発表した原稿の再掲である(なお、岡和田晃は限界研を退会済み)。


 映画『ロード・オブ・ザ・リング』三部作の完結から10年あまりが経過し、ようやく、J・R・R・トールキンの世界を舞台にしたピーター・ジャクソン監督の新作『ホビット 思いがけない冒険』が公開された。

 原作の色調に少なからず思い入れがある者としては、映画『ロード・オブ・ザ・リング』三部作には、煮え切らないコメントを残さざるをえなかった(http://ameblo.jp/genkaiken/entry-10763657500.html)。


 しかし、仕事が立て込んでいてもこれだけは外せないと封切り日に観に行った『ホビット』は――筆者のようなうるさ方であっても支持せざるをえない――快作に仕上がっていた。いや、そんな言葉で表現できるほど、生易しいものではない。


 映画『ホビット』は、英語圏のファンタジー文学や映画、あるいはロールプレイング・ゲーム等を席捲してきた「ハイ・ファンタジー」のプロト・イメージが結集した作品であった。


 簡単に言えば、これらの「ハイ・ファンタジー」周辺文化に耽溺していればいるほど、視聴者は『ホビット』から(愛憎入り交じった)既視感を引き出すことになるという、そんな(罪作りな)映画に仕上がっていたのだ。




 ひとえに、目眩く既視感の渦に圧倒された。その時、筆者が感じたものを、ここではいくつかざっくりとスケッチしてみたい。




ドワーフ! ドワーフ


 例えば、むさ苦しくも愛らしい十三人のドワーフたちを考えてみよう。


 映画『ホビット』でのドワーフの描き分けは見事なものだった。


 ドワーフ。かつてはウォルト・ディズニーの「白雪姫」に出てくる「七人の小人」のイメージで語られたものだが、今やさしたる説明は必要としないだろう。


 「ハイ・ファンタジー」を題材としたロールプレイング・ゲームの世界において、ドワーフは欠くことのできない重要なガジェットになっている。


 だが実際に映画を観て、筆者は映画の冒頭に登場した、エレボール(ドワーフの「岩の館」)の彫刻に仰け反った。ここに刻まれた「ドワーフ」の姿が、ロールプレイング・ゲームダンジョンズ&ドラゴンズ』第4版に出てくるドワーフのヴィジュアル(http://www.hobbyjapan.co.jp/dd/news/phb4th/1121_04.htm)にそっくりではないかと思えたのだ。

ダンジョンズ&ドラゴンズ第4版スターター・セット

ダンジョンズ&ドラゴンズ第4版スターター・セット

 あるいは、友人の言によれば、合戦シーンではドワーフの中にモヒカン姿の者も見受けられたという。モヒカン・ドワーフといえば――ミニチュア・ゲームに始まり、ロールプレイング・ゲームや小説、グラフィック・ノベルやコンピュータ・ゲーム等、さまざまな媒体で人気を誇る――『ウォーハンマー』シリーズのイコニック・キャラクターである「トロール殺し」の特徴的なファッションだ。
ウォーハンマーRPG 基本ルールブック

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 映画『ホビット』はこうした実例のオンパレードであり、それを列挙していくだけで――『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』ばりの――長々とした注釈、どころか、本が一冊が書けてしまう。
オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス)

オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス)

 それでいて、原作ではあまり特徴がなかったドワーフたちも、映画ではそれぞれにヴィジュアル的な特徴が付与され、うまく見分けがつくようになっている。思わず、映画のイメージをミニチュアで再現したゲームズ・ワークショップの新作『ホビット』を買ってしまいたくなったほどだ。



 
 ――制作陣は、確信犯でやっているとしか思えない。


 今回はゲームにおけるドワーフの描かれ方との相関関係を例に出したが、『ロード・オブ・ザ・リング』の公開以後、にわかにブームとなったファンタジー映画――『ハリー・ポッター』や『ナルニア国ものがたり』など――を軸に、さまざまな観点から、検証することができるだろう。


 映画『ホビット』は、先行作『ロード・オブ・ザ・リング』が火をつけた(2000年代の)「ハイ・ファンタジー」ブームがもたらした「浸透と拡散」を、自ら総括にかかった、そんな作品なのかもしれない。





●『ホビットの冒険』のアイロニー




 映画『ホビット』の原作である『ホビットの冒険』は1937年に刊行され、1965年に児童文学者である瀬田貞二の名訳で日本に紹介された。それから「ハイ・ファンタジー」の古典として親しまれ、多数の読者を獲得しつつ、現在に至る。


 『ロード・オブ・ザ・リング』の原作である『指輪物語』と『ホビットの冒険』の一番大きな違いは、ずばりその色調の差異だろう。


 『指輪物語』は“昏さ”に満ちた小説であった。原作者トールキンは、自作とリヒャルト・ヴァーグナーの『ニーベルングの指輪』に――「指輪が登場すること」のほか――大きな相同性を認めなかったというが、さりとて『指輪物語』が「神々の黄昏」にも比すべき、哀しみに満ちた作品であったのは間違いない。



 しかし、『ホビットの冒険』には『指輪物語』を覆っていた“昏さ”がない。反対に、『ホビットの冒険』でクローズアップされるのは、ドワーフ、エルフ、そして人間がもたらす、どろどろした欲望蠢く勢力争いの図式であった。


 その凄まじさは「悪役」であるはずの邪竜スマウグやゴブリンたちの迫力が、時として霞んでしまうほどのものである。


 それは『指輪物語』とは似て非なるものではないかと思う。



 『ホビットの冒険』で語られる情景は、往々にして「ハイ・ファンタジー」がそのような因果律に支配されていると批判される、暴力的なまでに単純化された善悪二元論とは一線を画すものになっている。


 その代表的な場面は、『ホビットの冒険』の後半部で唐突に現れた人間の英雄・バルドの矢によって、悪竜スマウグが滅ぼされるところだろう。


 トールキンは自作を思想的に読み解くことをひとつの禁じ手としたが、どう読んだとしても、このシーンに強烈なアイロニーを感じずにはいられない。また、ドワーフのリーダー、トーリン・オーケンシールドが最後にどうなったのかを考えてみれば、トールキンは自作になまなかな“救済”を盛り込んでいなかったことがよくわかる。




●『指輪物語』とカウンター・カルチャー



 「本格ミステリ」がジェイムズ・ジョイス等のモダニズム文学から自らを切り離すことで、良くも悪くも「ジャンル」としての自律性を獲得してきたように*1、「ハイ・ファンタジー」もまた、20世紀小説から自らを切り離すことで、「ジャンル」としてのアイデンティティを獲得してきた。筋の通った因果律に支配される“準創造”された別世界。『ホビットの冒険』は間違いなく、その嚆矢であるだろう。その試みは『指輪物語』へ引き継がれ、無数のフォロワーたちを生み出した。



 『指輪物語』が多数の読者を獲得したのは、それが現状に“ノン”を突きつけるためのオルタナティヴな世界観の提示、すなわちカウンター・カルチャーとして受け入れられた部分が大きかった。それは作品に籠められた“昏さ”が、同時代の状況を相対化するための眼差しを、若い読者へもたらしたからだ。



 『指輪物語』に影響を受けたカウンター・カルチャーは数知れない。例えばハードロック・バンドのレッド・ツェッペリンは――あの『天国への階段』が収録され――代表作とされるアルバム(通称)『LED ZEPPELIN 4』に、『指輪物語』の「ペレンソール野の合戦」を題材にした「The Battle of Evermore」および「霧ふり山脈」に題材を採った「Misty Moutain Hop」の2曲を収めている(どちらも名曲!)。


 こうした文脈により関心のある方は、雑誌「幻想文学」53号「音楽+幻想+文学」を参照されたい。「ハイ・ファンタジー」にふさわしい音楽のリストがある。




●「ハイ・ファンタジー」をシリアスに考える



 一方の『ホビットの冒険』は、『指輪物語』ほど「カウンター・カルチャー」として、受け入れられなかったように見えてくる。


 だが、それゆえに、「ハイ・ファンタジー」という「ジャンル」を成立させるだけの、プロト・イメージになりやすい部分があったのではなかろうか。



 映画『ホビット』には、『ホビットの冒険』以降、70年以上の長きにわたって、「ハイ・ファンタジー」というジャンルがどのようなイメージを再生産してきたのか、その軌跡が痛々しいほどに刻み込まれている。


 つまり、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』などのロールプレイング・ゲームの興隆が、「ハイ・ファンタジー」の興隆と切っても切り離せないことを存分に理解したうえで、映画『ホビット』は、その文脈を自ら本家へ取り込もうとしている。


 しかしながら、恐るべきことに、この映画は原作のテクストを徹底的に読み込んで作られてもいるのだ。


 ドワーフたちがテーブルを囲んでがなり立てる歌や、因縁のゴラム(ゴクリ)が暗闇で「謎かけ」を行なうシーンなどが、その典型である。



 こうした場面は、『ホビットの冒険』の後半部や『指輪物語』で、形を変えて「反復」の対象となるのだが、筆者が特に驚いたのは、重要な敵役として、オークの親玉のアゾグ(片腕をトーリン・オーケンシールドに斬られた奴)が登場したことだ。


 映画館では「アゾグなんて出てきたっけ?」と首をかしげ、あとで調べて気づいたが、なんと、アゾグの名前は瀬田貞二が訳した(『ホビットの冒険』)では出てこなくて、原著が1967年に出た版(トールキンの手が入った最終版)で初めて言及された名前なのである(!)。


 むろん、原作ではアゾグは既に死んでいる(原作の最後「五軍の合戦」に登場するのは、息子のボルグである)。そのあたりは、なぜかエルフの奥方ガラドリエルや白の魔術師サルマンが登場するのと同じように、映画ならではのご都合主義とみなせなくもない。


 しかし、今、原作と引き比べて精査に堪えるだけの映画が、いったい、どれくらい遺されているだろう? 原作でさり気なく仄めかされていた「ゴルフの起源」がちゃんと映画に取り込まれていたことなど、空恐ろしさすら感じさせるこだわりだ。



 文芸批評のメソッドに興味がある人ならばご理解いただけると思うが、テクストをしっかり分析するにあたって、版ごとの異同を確認するのは重要だ。トールキン研究の進んだ英語圏では、原作の版ごとの異同を細かく追った『THE HISTORY OF THE HOBBIT』という本すら出ているほどである。映画『ホビット』は、こうした批評的読解に、一定の理解を示しているようにも思えるのだ。



 そう、映画『ホビット』が真に恐るべき映画なのは、原作『ホビットの冒険』を出発点とし――今や視聴者の無意識の領域にまで染み込んだ「ハイ・ファンタジー」のプロト・イメージの数々を、再帰的にスクリーン上へ浮かび上がらせながら――観客をさらなるテクストクリティークの深みへ誘うという、往々にして相反する試みを同時に達成していることだ。それは、ゴダールの映画のような「引用」の戯れとも、微妙にスタンスが異なるように思えるが、これまで曖昧なイメージで語られ続けてきた「ハイ・ファンタジー」の古典に対し、シリアスな眼差しを向けるために、絶好の機会を与えられたようにも思える。



 実作者・批評家問わず、ファンタジーやSFの「古典」をどのように継承していくかが、とりわけ若い世代において喫緊の課題となっている。映画『ホビット』は、そのために、きわめて重要な視座を提示してくれる作品だった。つまり、『ホビット』が再帰的に「ハイ・ファンタジー」を総括したことで、かつて『指輪物語』が同時代に与えたような批評的観点を、視聴者に与える可能性も考えられる。


 さて、映画『ホビット』は「カウンター・カルチャー」となるのだろうか?

ホビットの冒険〈上〉 (岩波少年文庫)

ホビットの冒険〈上〉 (岩波少年文庫)

ホビットの冒険〈下〉 (岩波少年文庫)

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The History of the Hobbit: Mr Baggins and Return to Bag-End (English Edition)

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