「映画『ロード・オブ・ザ・リング』三部作が切り捨てたもの――『指輪物語』における“昏さ”の意義について」
限界小説研究会公式ブログに、Unlimited Review「映画『ロード・オブ・ザ・リング』三部作が切り捨てたもの――『指輪物語』における“昏さ”の意義について」をご掲載いただきました。門倉直人論を書いたときにトールキンの凖創造論について語りましたが、やや切り口を変え、トールキンが有していた表象行為への疑義から、さらに一歩進もうと足掻いてみました。
http://ameblo.jp/genkaiken/entry-10763657500.html
この原稿を書くことができてよかったのは、長年疑問に思っていた『ロード・オブ・ザ・リング』の問題についての道しるべを提示できた、ということです。おそらくここで素描した出発点から、レッシング『ラオコオン』で詳細に論じられた詩的原語と絵画原語の差異に始まり、中つ国をいかにして映像言語で紹介するかというレベルにまで近づいていくことができるではないかと思っています。そして『ロード・オブ・ザ・リング』、そして『指輪物語』の内在的な論理がいかなるものかという地平へ近づいていくことができるでしょう。
言い換えればトールキンは、妖精の国では不注意なものには陥穽が待ち受けていると意味のことを述べましたが、その陥穽がいかなるものであるかを考えることなしに21世紀のフィクションを語ることはできないと申し上げている次第です。
おそらくその陥穽を乗り越える一つの手がかりは『指輪物語ロールプレイング』にあります。
いま、私の手元には『指輪物語ロールプレイング』のサプリメント「PHANTOM OF THE NORTHERN MARCHES」が置かれていますが、この「NORTHERN MARCHES」が中つ国のいかなる場所に該当するのか、考えてみて下さい。『指輪物語ロールプレイング』の特性は、第三紀の「大いなる年」のみならず中つ国の歴史そのものを再現しようとしたことにあり、これはRPGにしかできないアプローチでした。
ところでトールキンは、自作に付せられたイラストに必ずしもいい顔をしなかったという話が知られていますけれども、寺嶋龍一については例外だったとの話もどこかで耳にしたことがございます。なかなか元気が出る逸話ですな。
私はアラン・リーが好きですけれども、例えば寺嶋龍一の色調をベースにした『指輪物語』の映像化が実現したら、などと夢想している次第です。